反対語のグラデーション
昨年、点滅した信号にあおられ駆け出して骨折した私。ギプスが取れるまでの2か月間、後期高齢者の母のもとに身を寄せた。
上げ膳据え膳に味を占め、昭和の父ちゃん気分でいたら、突然母が体調を崩した。高熱が出て、食べれば全部戻してしまう。体中が痛み寝返りも打てない。意識は切れ切れ、今が朝か夜かもわからない。
慌てて近所の病院に電話をかけた。
発熱外来の時間内に連れて来いとのこと。
そう言われても、私は今、動けないからここにいる。母をタクシーに乗せるどころか、助けを求めに隣まで行くことさえできない。
しかし電話の向こうで声だけ聞いていれば、そんなことは夢にも思わないのだ。
その後のドタバタは別の機会に譲るとして、(母も私も今は元気です!)この時私は一つの気づきを得た。
「反対語にはグラデーションがある。さらにそれらは立体をなしている。」
色立体を想像してもらいたい。またはググってもらいたい。
幾つかの要素があり、各要素にはグラデーションがある。さらにそれらが合わさって立体をなしている。
「病気/健康」という反対語は、オセロの裏表のようにハッキリ区別できるものではなく、濃淡のグラデーションがある。
さらに、病気でなくても骨折はしているかもしれない。障害があるかもしれない。複数の要素を併せ持つかもしれない。他にもいろんな事情のグラデーションが人それぞれあるものだ。それらがみんな合わさって立体をなしている。
私たちは誰も完全な球体ではない。どこかしら出たり引っ込んだり、いびつで独特の色立体だ。
だからこそ、居合わせた者同士で互いの凸凹を組み合わせ、どうにかその場をしのいできた。これからもそうしていくのだろう。
高齢の母は骨折した私の世話をし、骨折した私は病気の母のために電話をかけた。
「支援する者/される者」という関係は極めて脆く、ほんの一側面でしかない。社会全体には、そんな関係が複雑に絡まり、広がっている。
ところが私たちはつい、反対語にグラデーションがあることを、誰もがいびつな色立体であることを忘れがちだ。
病気や障害などの有無をキッパリと区別したがる。「支援しているあなたは完全な球体」と決めたがる。
そうすれば話は早い。しかしそれでは主客転倒だ。
人を球体として見るのでなく、グラデーションを持つ色立体として一人ずつ出会っていくことはできないだろうか。そんな効率の悪いことを続けていたら、どんな未来が開けるだろう。
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