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日本対ベトナム、私の痛恨事(5)/(5)

2021年11月のアウェーでのベトナム戦、私は「12番目の選手」として、できる限りのことをして勝ちたかった。だから、差し出がましいと思われても、できることをやった。私の行動には、結果的に意味も効果もなかった。でも、やるべきことはやった。

2022年3月、ホームでのベトナム戦、私は勝ちたいと思っていたが、どこか緩んでいたのだろう。最善と思われることをやらなかった。そして、日本代表はホームで引き分けという結果に終わった。

国歌の時点で、ベトナムサポーターが声を出しているのが中継のテレビでもわかった。これでは、日本サポーターだけが大人しくして、ベトナムサポーターは声を出して応援し、アウェーさながらになってしまう。恐れていたことが現実になっていくのを、ハノイでテレビを見ながら感じていた。

それでもまだ、私には甘さがあった。どうせ圧倒的な展開で日本が勝つ。日本がリードし始めれば、ベトナムサポーターも静かになるだろう。日本側も余裕が出てくる。たいした問題にはならない。どこかでそう思っていたのだろう。

前半、ベトナムがコーナーキックを得た時、ベトナムサポーターの声援は一段と大きくなった。得点してからは、もはや制御不能とみえた。一試合を通じてベトナムにはほとんどチャンスらしいチャンスはなかったが、日本の攻撃を防ぐたびに大きな歓声がテレビを通じて聞こえてきた。

チケットを買ってスタジアムに行く。異国の地にいて、コロナ禍で帰国することもままならない中、自国の代表チームが大舞台で闘う姿を応援する。束の間、日常を忘れ、言葉の通じる仲間で集まって心を一つにする娯楽。サッカーの国際試合の観戦とはそういうものだ。

スタジアムとは、興奮しに行くところだ。普段、日本社会で日本人に囲まれて生活しているベトナム人が、大人数集まって同胞を応援する時、「興奮するな」という方が難しい。そして、興奮状態の群衆を現場だけで制御するのは、それが日本人であっても難しい。誰だって若いころに仲間うちで集まって大騒ぎをして、思い返せばあれは周りに迷惑だっただろうなと感じる経験くらいしたことがあるだろう。興奮状態になってしまった後では、現場でそれを鎮めるのは難しいのだ。

ベトナムサポーターは、全員が声出し禁止のルールをまったく知らなかったわけではないだろう。現場では繰り返しアナウンス、注意喚起がなされていた、しかし、「声出し」の基準はあいまいにならざるを得ず、「これくらいはいいでしょ」というラインが拡がっていって、興奮状態の中で無原則、無秩序になってしまったのだろう。

私は、この件について、ただベトナムサポーターだけを責めればいいとは思わない。

たしかに、現象としては「ベトナムサポーターがルールを破った。対して、日本サポーターはルールを守った」ということが起きた。ただ、その原因の根っこには、ベトナムサポーターにルールの意味や背景事情が周知され、入場者の共通認識となっていたかどうかということがある。そこに目を向けずに彼らだけを責めても、解決や改善にはつながらないだろう。

「ここは日本だ。日本のルールに従え」というのは、その通りだ。ただ、前にも書いたとおり、外国で暮らす者にとって、その国、その街の細かいルールを、逐一リアルタイムで理解して適切な行動をとれというのは酷だ。そのルールが特殊だったり、複雑だったり、その社会特有の事情に則したものだったりする場合はなおさらだ。

そして、スタジアムで「声出し禁止」というのは、特殊で複雑で、日本のこれまでのコロナ対策の積み上げの中で到達した特有の事情によるものだったと言える。日本サポーターには共通認識となっていたことでも、ベトナムサポーターにとってはそうではなかった(念のために言うが、私は「特殊で複雑で日本特有の事情に則したルール」の内容の当否を問題にしているのではない。それが国際的にみて「厳しすぎる」とみられるものであっても、それは日本政府、日本社会が決めることで、ルールとして決まった以上、従うべきものだと考えている)。

チケット販売の段階で、また当日会場で、さまざまな形でアナウンスはされていただろう。しかしそれだけでは足りなかったのだ。私は事前に「足りないだろう。だから周知しなければ」と気づいていたにもかかわらず、何もしなかった。

そして得たのは、

・日本代表にとってまるでアウェーのようなベトナムサポーターの歓声
・ルールを守らないベトナムサポーターに対する日本側の苛立ち、怒り
・「ベトナム人はルールを守れない」という日本側のイメージの助長
・「日本のルールは厳しすぎるし不合理」というベトナム側のイメージの助長
・「日本は格下相手に勝てなかったから文句を言っているだけ」というベトナム側の誤解
・「ベトナムサポーターに向けて『声出し禁止』というプラカードを掲げていたのはベトナム人差別」というベトナム側の誤解

という不幸な結果だった。

今回の一件は、「ベトナム人はルールを守らない・守れない」のではなく、ベトナムサポーターが日本という大きなコミュニティの中で、日本サポーターにはあった共通認識を持てていなかったから生じたことだと思う。

事前に、少しでも、東京五輪を無観客でやったこと、その後、日本で各種の競技団体・機関などがコロナ対策に腐心してきたこと、そしてようやく人数無制限・有観客でできるようになったこと、コロナ関連の規制が徐々に解除されてきてあと一歩で声出し応援や場内でのアルコール販売なども全面的に認められるところまできたことなどを、日本在住ベトナム人コミュニティを通じて周知し、共通認識を持ってもらえるようにするべきだった。

私は、それができる立場にいた。痛恨の極みだ。

twitter上に、ゲームが終わってスタジアムを去った後、ベトナムサポーターが陣取っていたエリアは、ごみが落ちていなかったというツイートがあった。facebookでも、ベトナムサポーターがゲームの後、ごみ拾いをして帰ったという投稿があった。

日本サポーターが国際試合でごみ拾いをして帰るというのは、前世紀から知られている。日本に関心をもって来ているベトナム人は、そういった日本人の美徳を敬って同じように行動しようと考えている。ルールやマナーの意味を知り、共通認識さえ持てれば、ルールやマナーを守ることはできるのだ。

だからこそ、事前にこれまでの背景事情を含めて周知して、共通認識をもってもらえるようにしておけば良かった。共通認識がなかったことで、互いに敵意帰属バイアスがかかり、日本側は苛立ちや怒りを増幅し、ベトナム側はマイノリティとして差別されている感覚を持つに至ってしまった。

ベトナムと日本のサッカーに関する交流は続いているが、現在、必ずしも手放しで蜜月と言えるわけではない。そんな中で、今回のような不幸なことが起きてしまったのが残念でならない。フットボールのためになることは、差し出がましいと思われても、躊躇せずに行動を取れるようにしたい。