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「ワンダと巨像」を語る

前置き

 数あるPS2ソフトの中でも未だ異色を放つ上田文人作品の二本目で、前作『ICO』の衝撃に続いて本作も孤独な世界の冒険をこれでもかというくらい私たちに追体験させる。
 たまたま母が『ICO』を持っていたので小さい頃になんか怖いゲームだなという印象を抱いていたが、成長するにつれて徐々に惹かれていった。同じ人が携わるゲームがあると知りこの『ワンダと巨像』を遊んだ。私自身が00年代生まれでこの令和の世にPS2実機を未だに現役で使い続けていると言う事を念頭に置いて本作を語っていこうと思う。

概要

2005年に発売。2010年にPS3、2018年にPS4でリメイクされている。
キャッチコピーは「最後の一撃は、せつない」

 青年ワンダは愛する者の命を取り戻すため、悪魔と「16体の巨像の破壊」と引き換えに契約する。この封印された土地を愛馬アグロと共に駆け巡る。

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ゲーム性以外の魅力

 このゲームの面白さはもう十二分に語り尽くされているため、私が書く意義が無いと思う。そのため「物語」と「音」について語る。

「物語」

 ストーリーは例によって本当に簡素、だが全く明かさない。ただこのワンダの行為が禁忌であること、納得して上で彼女が命を失った訳ではないということしか分からない。前作『ICO』の説明書内でも述べているように今作も同様に、

「いつだかわからない時代の、どこだかわからない場所でのお話」である。

 ワンダが何者か、彼らがどういう民族なのか、ドルミンと村の関係はどういったものだったのか…挙げるとキリがないがあの空間より外の話を一切教えてくれない。実際に遊ぶ中で観た以上の情報はなく、それ以上の事は全て私たちがどう感じたかに委ねられているのだ。

 「音」

 一段と没入感を高める要素の一つであろう音。まず最も特徴的な音として挙がるのはやはり「言葉」だろう。架空言語による会話、特にドルミンの幾重にも重ねられたあの声は姿は見えずとも異形の物であることを我々に印象づける。遊んでいる間ひたすら聞き続けるワンダの声もうめき声と「アグロ」の一言と非常に簡素であるため、僅かしかないカットシーンの会話が余計に耳に残ると思う。そして祭壇に帰還する場面で暗転する時に流れる声はドルミン、ワンダの言葉とも少し違って聞こえ聞き取りづらい、その上囁き声である。この意味不明で判らないけれど最後まで頭の片隅に残り続けるという場面の力はとても強力な謎とプレイ意欲を引き出していると考える。
 次に「環境音」。広大なマップ上を駆け回る本作は様々な地形が登場するため発する音もそれに準じて多様である。常に行動を共にする愛馬アグロの鳴き声、足音一つにも少し不規則性があり、長距離の移動も単調に感じづらくなる。続いて「風の音」について。これこそが上田文人作品の独特な空気感を醸し出している最大の要因だと思う。室内、屋外、平野、谷、水辺、崖、シームレスに移動する空間において空気の流れの微妙な変化がフィールドを歩き回っている時に感じる心地よさに繋がっていて、同時に霧の城や巨像の土地の様な世界への説得力を高めているのだと考える。
 最後は大谷幸による「音楽」。上記の二つと楽曲が重なった時の効果は絶大であり、16体の巨像へ向かう私たちの精神に多大な影響を与える。その最も顕著な例がオープニングであると私は考える。

冒頭、一匹の猛禽類に追っかけのアングルで始まり下降する勢いに乗せて主人公ワンダと愛馬アグロに移る。険しい山道を歩む一人と一頭、そこに流れるのは異国の撥弦民族楽器(irish bouzukiという弦楽器)の音。孤独な旅路に耳馴染みのない響きが重なることで一気に引き込ませる。そして崖を飛び越える際には女性のコーラスと下降系のストリングスによるメロディが神秘的であり、休符(又はG.P.全休止)がかかることで不安さや月夜のイメージを増幅させる。森の中へカットが暗転すると同時に主題となるフレーズが始まる。そのフレーズが展開すると共に森の水辺、雨宿り、禁忌の大地の入口へとカットが進み、橋に差し掛かると同時にメロディが上昇系に変化し快晴の大地が徐々に全景を映し出す。またこの場面まで夜または雨だった天候が初めて晴れ、太陽の光をワンダとアグロに当てるのだ。
 このように「音」が素晴らしいのが本作の魅力の一つである。





以下結末などについて。







「トドメの一撃は、せつなくない。」

 既に遊んだ方に問いかけたい。一回、落ち着いて考えてほしい。
巨像を倒した時は本当に「せつない」のか?
当時のCMでも巨像が倒れるシーンに合わせて例のキャッチコピーが使われていたらしいが、あの最後の一刺しはゲームを象徴するほどの「せつなさ」を遊んでいた時に感じたのか?

 どちらかというと達成感が大きかった。絶対にそのはずだ。
苦労して登った足、何度振り落とされたか分からない翼、背中、頭。なかなか剣を振り下ろさないので頑張って誘導して、いいところで握力が足りず落っこちる。アグロに跨って砂魚の目を、竜の膜を繰り返し射る。愚鈍な巨像の足下をちょこまか動いて上手く案内して。何度も何度も落とされて、やり直して、腹が立って、もどかしくて、悔しくて。それでも諦めないで繰り返し挑んだはずだ。
 そしてようやく、最後に剣の一刺しをして終わることが、ゲームをクリアすることができるのだ。その遊びの体験の中に「せつなさ」が占める割合はとても少ない、もしくは無いはずだ。百歩譲って巨像を倒す際の演出がそのように感じると言われればそれまでなのだが、この作品を象徴するほどの「せつなさ」がそこにはあるのか今一度考えてみると、

「トドメの一撃は、そこまでせつなくない」のだ。

それでは、「最後の一撃」とは何か?
愛馬アグロが落ちて孤独な戦いをした16体目の巨像に打ち勝った瞬間か?
野暮なのでこれ以上は言わなくてもわかるだろう。
最後の最後、本当に最後、「最後の一撃が、せつない」のである。



エンディング

 復活の悪魔。ついには自分が巨像になり、振り下ろす拳は巨大で今までの鬱憤を晴らすがごとく村の追っ手と酋長に向けて叩きつけるが、そこで待っているのはもどかしい操作感。逃すまいと左スティックを倒すも壁に向かってしまうし、ちょこまか動く彼らから受ける矢にまた少し腹が立つ。そして操作を把握しているうちに、酋長が封印の儀を終わらせてしまう。ドルミンの影が浄化され人間の大きさに戻り、泉へと吸い込まれる。
 ここでもワンダの運命は私たちの手、コントローラに委ねられている。少しでもいいから彼女の元へ近づけるように、最後に一目でも見せてあげたい。そう思って左スティックを精一杯倒しはするも、泉の吸引には逆らえずにただ体が吹き飛ばされ、かつて巨像の背中に乗った時の様に転げ回るのみ。じわじわと吸い込まれ最後には泉の縁に掴まることしかできない。十数時間、今まで振り落とされないように巨像を掴み続けた手で最後まで足掻く。しかし、これまでに成長した腕力ゲージが残酷に刻々と無くなるのを待つか、そのR1ボタンを離してしまうか。
 流れるのは「戦いの終わり」、毎回とどめを刺し、無音スローモーションが終わった時に流れる曲である。そのいつもは流れない最後のコーダ部が繰り返される。主旋律はたった二音のループ。ゲージが無くなる最後の瞬間までR1ボタンが離せない、離してはいけない、いや私自身が離したくないんだ。だが、無情にも時間が来る。そしてワンダは泉へと吸い込まれて、禁忌の土地へ繋がる橋は崩れ落ち、全ての事は終焉を迎える。

 少女は目覚め、創痍のアグロ、そして角の生えた赤子がひとり。
報われたのか、はたまた罰の始まりなのか、それは誰にも判らない。


総括

 note、Youtube、いろいろなフォーマットで語り尽くされているこの作品について、なるべく語り口が被らないように気を付けて文章にしたつもりである。昨年の夏の終わり頃に初めて遊び、もちろんハードモードもクリアしたのだがPS2を起動する度に不思議と触りたくなる一本になった。そこで毎回エンディングを迎えた時にじんわり込み上げてくる悲しさ、悔しさ、怒り、ごった煮の感情の部分とキャッチコピーについて書こうと思い本記事の執筆に至った。初期段階ではタイトルを「トドメの一撃は、せつなくない」にしようと思ったがこの作品全般について語りたくなったので他記事と同様の形式で分析、妄想を書きなぐることにした。
 私は「音」があらゆるエンタメ鑑賞をする上で重点を置いているため、その点について思った事を何とか形に出来たので満足である。
 遊び心地としては流石に2005年のゲームなのでストレスを感じる点やグラフィック技術の古さを覚えるが、それも含めて今回のゲーム体験なのだと改めて思った。私にとって「ワンダと巨像」はリマスター版ではなくPS2版なのだ。

 最後に「上田文人作品は遊び手を孤独にさせ、
      孤独な人間は上田文人作品に行き着く」と私は考える。

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