夢のパラレルワールド
中学二年生の時。二つ年上の姉が家出をした。
当時、父が独立して立ち上げたリフォーム会社の調子が悪く、加えて数年前に購入したマンションのローンや、父方の叔母さんが離婚してそこにも仕送りなどを送らなければいけなかったらしく、全ての負担を請け負った父は心身ともに限界を迎えていた。
父はストレスで毎晩怒鳴ったり、僕達家族に手を挙げたり物に当たったりを繰り返し、購入したマンションの壁は数年としないうちに穴だらけになった。
そして姉の家出である。小さな頃から利発で口の達者だった姉はよく父とも衝突し、家族の中で一番父のDVの被害に遭っていた。
母はその事で頻繁に泣き、父が酒を飲みに出て行った後に母を慰め、あんな男と結婚するんじゃなかったとか、別れられないのはあんた達がいるからだ、といった類いの愚痴を聞くのはいつも僕の役目だった。典型的な機能不全家族である。
家出をした姉はすっかり非行少女となり、地元の不良グループに入って行動するようになり、時々思い出したかのように家に帰ってくると、父や母と喧嘩し、また壁の穴を増やしてどこかに消えていく。
そんな家の状況を打開したかったのか、ある時母が突飛な行動に出た。
犬を買ってきたのである。
しかも都内ペット禁止の分譲マンションで黒のラブラドール。オス。
「犬がいればお姉ちゃんが家に戻ってくるかもしれない」
それが母の言い分だったが、当然その程度では姉は家に帰らなかった。
犬の世話は当たり前のように僕がする事になったが、最初のうち、犬はまだ生まれたばかりのせいかケージの中で寝てばかりいた。
(ここからは犬の事を、便宜的に「彼」と呼ぶことにする)
始めて彼と対面した時、僕は寝ている彼をケージの中からそっと出すと、自分の二の腕に乗せてみた。
彼はそれでも全く起きなかったが、思春期の僕の細い腕に、その命はずしりと重かった。
それから、彼は暗い家庭の状況の中でも、関係なくすくすくと育った。
ラブラドールレトリーバーは一応、中型犬に分類される犬種らしかったが、彼は大型犬に分類される他の犬種に匹敵するくらい大きくなった。
そして彼は餌をやったり散歩に行く僕に一番よく懐き、僕も元気な弟ができたみたいでとても可愛がった。
彼のどこが可愛かったか。
まず、彼の垂れた耳は柔らかくて、いつもちょっとだけひんやりしていて、触ると気持ち良かった。
耳の中は時々綿棒をティッシュでくるむなどして掃除してやるが、えもいわれぬ不快感があるらしく、体全体をぎゅぎゅっと硬直させる。でも逃げない。
しかし前足の爪の上辺り。人間で言うと手の甲の部分とでもいおうか、あそこだけは触られるのを嫌がった。
試しに指先でつつくと素早く前足を引っ込める。
時々おもしろくなって何度もつついてしまうのだが、彼はその度に「そんな事して楽しいか?」とでも言うように怪訝な目つきで僕を見上げる。
それからお風呂だ。風呂場に連れてかれるまでは抵抗するが、入り口の前までくると観念したようにするりと中に入る。
ぬるま湯で背中、お腹、前足、後ろ足、おしり、尻尾とシャンプーした後に外の洗面所に出す。そうすると開放感があるのか、黒い弾丸のように部屋中を走り回る。
至る所に体当たりをするので、そこら中が毛だらけとなる。
僕が両手を広げて「こっちに来い」というと、僕めがけて突進してくる。
そこからは相撲、というかただの押し合いみたいになるのだが、彼は家族の中での自分の序列をしっかり理解していたようで、最後はいつもその場でごろりと仰向けになってお腹を見せた。
いつしか彼といる時間は安らぎになった。言葉こそ交わせなかったが、彼が何を伝えたいのかは手に取るように分かったし、彼も僕の一挙一動をよく見ていて、次にどう動くのかをかなり正確に把握する事ができた。
彼は人でなく犬なのだが、僕にとってはもはや犬ではなく人だった。
ちなみに子犬の頃から人間に飼われている犬は人を人でなく犬だと思い込むらしい。つまり彼からすれば僕は人でなく犬なのだ。僕は犬でなく人なのだが、彼にとっては僕はかけがえのない犬だったのだ。
ワンワン。とりあえず言ってみる。ワンワン。
そして五年程経つと、僕は実家から離れた大学の近くで一人暮らしをするために、彼と初めてはなればなれになった。
人見知りで最初は上手く友達も作れなかった僕は、いつも彼を撮った写真の束を鞄の中に入れていて、寂しくなったらそれを取り出して一人で眺めていた。
四年経って僕は都内の会社に就職した。
実家から近かったので、そこから通う事にした。
その時彼はすっかり人間でいうと初老の年になっていて、真っ黒だったはずの顔の口元の周辺が白くなっていた。
仕事から帰ってきて、「やい、じじぃ」と呼ぶとヨタヨタと近づいてくる。
抱きしめると、ゆっくり大きく尻尾を振って、床を叩く。
たん、たん、たん、とそのリズムを聞いているうちに気分が安心してくる。
しかし一年と経たないうちに、軟弱者の僕はうつ病になって会社を辞めた。
実家に居づらくなり、また彼と離れて一人で暮らす事にした。
不安になって毎晩薬と一緒に酒ばかり飲み、仕事も色々転々とした。
そして数年経たないうちに、彼が死んだ。
父が散歩をさせていたら、何かを拾い食いして、急に苦しみだしたらしい。
家に連れて帰ってから、父が動物病院を探しているうちにすっかり事切れてしまったようだ。
知らせを受けて、実家に帰ると、彼が僕の部屋のドアの前で横たわっていた。苦しそうに目をつむり、口からピンクの舌先が出ていた。
彼は死に場所に僕の部屋の前を選んだ。
本当は僕に助けて欲しかったのかもしれない。
家族の前ですらも滅多に感情を出さなくなっていた僕だったが、この時ばかりは大声で泣いた。
抱きしめると、彼の体はびっくりするくらい冷たくなっていた。あんなに僕を安心させてくれた体温は、もう彼の中に残っていなかった。
翌日、ペットの葬儀屋に頼んで、彼を火葬する事にした。
業者の人と二人で遺体を車まで運び、焼却場で好物だったおやつや気に入っていた玩具などと一緒に炉に入れる。
僕は一人で、彼が骨だけになる所までしっかりと見届けた。
雪の降った日、まだ子犬だった彼を、誰もいない公園に連れて行った事があった。
リードを話すと彼は少し興奮した様子で雪の中に鼻を突っ込んだり、舌先で味を確かめたりしていた。
僕は隙をついて公衆トイレの陰に隠れる。
彼は僕がいないことにはたと気づいて、少し焦った様子で辺りをウロウロし始める。
僕が姿を現すと、喜んで駆け寄ってくる。そして一通り安心すると、彼はまた雪の中を一人で散策し始める。
僕が隠れるとまた困った様子で辺りを見回し、喉を鳴らす。
姿を現すとまた駆け寄ってくる。
あの頃、僕を探してくれるのは、彼だけだった。
家にも学校にも居場所がないと感じていた、十四歳という困難な時期。あんなに必死に僕を探してくれるのは世界中で彼だけだったのだ。
さて、どうしてこんな、人様の気を滅入らせるような事を書いているか。
この話しにはこんな続きがあるからだ。
さっき、気づいたら枕元に彼がいた。
名前を呼ぶと、大喜びしてその場で飛び跳ねる。
しかし長い間散歩に行けていなかったせいか、彼は部屋の中でウンチをしてしまっていた。匂いもする。
彼は、はしゃぎすぎて、自分のウンチを踏む。
ウンチを踏んだ足で部屋を走り回られては困るため、僕は彼を落ち着けようとするが、何故か体が金縛りあったように動かなくなる。
そうこうしているうちに現実に体が引き戻され、夢から目を覚ました。
外では今、春の雨。ざぁざぁ降っている。当然彼はいない。
僕は布団の中でしばらく考え、ふと思った。
おそらく、この雨音を現実世界での「碇」として繋げたまま、さっきまで僕は起こりえた「パラレルワールド」、つまり彼が生きていたという可能性の世界の中にいたのではないか。
そして現実とパラレルワールドは表裏一体だ。
現実を起点としなければ「起こりえた世界」は存在しないからだ。
僕が現実に生きているから、彼も時々あわいの世界に姿を現す事ができる。
僕が生きている限り、彼の存在は消えないのだ。
つまり、大切な人が幽霊になって枕元に立つ、というのはこういう事だったのではないかと、今勝手に思っている。
そしてきっと、この世界では今も誰かの大切な存在が失われ続けている。
でも、失った人が失われた誰かを大切に思い続ける限り、その誰かは失った人の起こりえた世界、つまりはパラレルワールドの中に存在し続ける。その死を受け入れがたい気持ちが大きければ大きいほど、別世界は緻密に、広大になっていく。
だから僕が生きている限り、彼も僕のパラレルワールドの中に存在し続ける。
そう考えたら、孤独や悲しみも、とても耐えられないようなものではなくなるような気がする。
今日からこう考える事にする。
彼の存在は僕の肌にしっかりと染み込んで、今でもそばにいる。
ふとした瞬間に、彼の犬のくせにおっさんなみたいな鼾とか、部屋を歩く時のチャチャチャっと、フローリングの床に爪が当たる音が聞こえてくるような気がする。
彼があのつぶらな一対の瞳で今もどこかで見つめてくれている気がする。
その感覚を、僕は現実に存在するものと等価として扱い、平行世界から現実世界に引き寄せる。
だから僕はきっと、これからも一人で生きていけるような気がしたのだった。
これはそういう話しである。
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