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まりつきうたにみるテンポの変化【小泉文夫『子どもの遊びとうた』を読んで】



先日、あぶくたったの会(横浜のわらべうた勉強会)でお話しした内容の詳細です☺️

「まりつきうた」を見ると遊びのリズム・テンポが変化していることがよく分かるよ!というお話。


書籍はこちら


小泉文夫 wikipediaページ
小泉文夫は、アジアをはじめ世界各地の音楽を調査・研究して紹介するなど、日本の民族音楽学の先駆者として多大な功績を残しました。


フィールドワーク(現地へ赴いた調査)において右に出る者はいないというほどの、ものすごい先生です。

そんな小泉文夫が、全国の小学校を100校以上まわって収集してきたわらべうた遊びを、ドドン!と紹介してくれているのがこの本📕

まりつき・遊びのなかのリズム

以下、引用します。

「まりつきうた」にみるテンポの変化
子どもの遊びに〝まりつき〟というのがありますが、これを調べていて面白いことに気づきました。今の子どもの「まりつきうた」、たとえば「あんたがたどこさ」などに比べて、昔のうた、たとえば「山王のお猿さん」などは、テンポが速いということです。
世の中は急激に変わり、昔に比べて今はなんでも忙しく、テンポも速くなったのではないかと考えられますが、子どもの〝まりつき〟に関してだけは事情が逆なのです。
::
(中略)
なぜ昔の「まりつきうた」のほうがテンポが速いのでしょう。その理由はこうです。今の子どもはゴムまりを使いますが、昔は綿を糸でまいた手毬が最高級品で、たいていは、山の子はコンニャク玉、海の子はヒジキや海綿を糸でくくってまりを作りました。ですから、今のゴムまりのようによくはずまないし、はずみ方も規則的でない。したがって、はずむ距離を短くしてテンポを速めないと、運動を続けることができないのです。

まりという道具の素材が変化したから、動きが変わる、だからテンポも変化するという理屈はとてもよく分かります。


また、まりの変化だけでなく、まりつきをする子ども側の変化も理由として上げられています。

昔は着物を着ていた、着物は洋服のようには足を上げられない。したがって、

・うんと前かがみになって、左手で袂(たもと)をもって右手でつく
・立てひざをしてつく
・座ってつく

など、今とは違う姿勢でまりをついていた。
どの姿勢でも、立っている時よりもバウンドする距離が短くなりますから、やはりテンポは速いわけです。


音楽、とりわけリズムというものは、人びとの生活様式や環境との関係が密接なものですが、「まりつきうた」のテンポの変わり方はそれを示す端的な例といえるでしょう。


歌のリズムには、生活様式や環境が関わっている。
変化の理由としてこれほど分かりやすいこともないでしょう!

それにしても、こうしてリズム・テンポの必然性を頭で分かっていたとしても、実際の遊びから気づけるかどうかが重要ではないか(小泉先生の視点がすごい!)と思います。

よくよく子どもの動きを観察するからこそ、気づくことがある。文化的な背景を知っている(推察できる)からこそ、現地に赴いたときに気づけることがある。

こういうところは、徹底してフィールドワークを続けた小泉文夫先生から、我々も学べることがあるのではないかと思いました。



一斗一斗一斗豆?

他にもまりつきの話題だと、「いちもんめのいすけさん」の話なんかが最高に面白い!

(東京の日暮里あたりでの歌詞)
一匁の一助さん いの字がきらいで
一万一千一百億 一斗一斗一斗豆
お蔵におさめて 二匁にわたした……
……二匁のニ助さん……

〝いも買いに走る〟パターンもよく知られているこの歌。数を数えていくための語呂合わせですから、特に意味などないことは分かっているのですが、

ずっと不思議だったんですよね、一斗一斗一斗豆……ってなんだ?と。一斗缶の一斗なのに、豆……?
この謎ときは以下に引用しました。

メートル法が施行されて、斗升合などの単位はなくなりました。もとのうたには「一万一千一百斛(こく)、一斗一升一合升」というように次第に一桁ずつ下がってくるおもしろさがあるわけですが、現代の子どもにはピンときませんし、そんなことはどうでもいいらしい。
そこで新しいアイデアが生まれ、ゴロ合わせの要素が加えられます。

一斗一升一合升?!
これには思わず爆笑しました、それが元だったのか〜〜😂
(しかも一百億じゃないし、一百斛だし!笑)

いやもうこれは、リアルだとしか言いようがないですよね。「そんなことはどうでもいいらしい」という小泉先生の言葉がシュールでおかしいし、とてもよく分かる。
だって遊びが楽しければいいわけですから!
みんな遊びを楽しく続かせるために歌を歌ってるんだもんね……!


また、わらべうたが音声言語?であることも同時に強く感じました。
耳から聞いて覚えるうたの場合、音として聴こえたものを頭のなかで言葉に変換する、という作業をわれわれ人間は無意識におこなっているんだなと🤔実感します。

だから聞き間違えもおこるし、より自分の身近なほうへ(実生活のほうへ)と言葉の理解を引き寄せていってしまうのかもしれません。


あと、数えうたは数が増えていくものだろう、と決めつけていた思い込みにも気付かされました。桁が下がっていく歌もある、とは!
面白さの質が高いというか、知的だなと思います。
まりつき遊びはそもそも大きい子(小学生以上)になってから本格化するわけですし、ユーモアの程度が高い?ことも納得できます。
小学生くらいがもっとも言葉に興味があって面白がる年代でもあります。替え歌もさかんに作りますし……!

気づかせてもらうことが多くて、本当に嬉しいです。


なわとび・その他 世界とのつながり


その他に特にご紹介したい内容だと、〝なわとび〟遊びのことがあります。

・なわとびは明治以前にはなかった遊び
・日本の伝統的な遊びや踊りには〝上下動〟がない
・もっとも活発な阿波踊りですら、腰をグッと低く落とす(農耕民族の文化?)
・なわとびは弥生時代以来のリズム革命である


同じアジアでも、韓国などは上下の動きがよく見られるそうです。日本では、日本語のなかにあまり強弱のアクセントがないことにも表れているように、大きな上下の動き(ハネるようなリズム)は近代まで見られなかったそうです。
これも、動きと生活様式の変化が、歌を変化させた部分、だといえるでしょうか。

また、「くまさんくまさん 回れ右」というなわとび歌はあきらかに「Teddy Bear, Teddy Bear, Touch the ground…」というアメリカの遊戯の輸入ではないか?とも書かれています。

小泉文夫にいわせると、わらべうたはもともと国際的である、らしいのです。たしかに、仏教をはじめとして日本が中国大陸から輸入した文化はたくさんありますし、文化交流は我々が考えるよりももっと昔から、もっと広範囲でグローバルに起こっていた?という事かもしれません。

(またそれは同時に、断絶された地域であっても(遠く離れていても)気候風土が似ていれば人間性が似通ってくることも思い起こされます。アイヌの文化とアイルランドの文化に類似性があることを思い出しました。)



エスキモーのあやとり

小泉文夫のフィールドワークはアジアに留まらず、世界各国さまざまな地域に実際赴いており、その研究の一端がこの本にも記されています。

世界の遊びを見ていくことで、生活・環境が歌を作るいうこと、わらべうたとは何か?ということをより意識できると感じました。

エスキモーの「あやとり」は、交互にやるそのやり方が、驚くことに日本とまったく同じであるそうです。(最後のほうは変わるそうですが、途中までやりとりがまったく同じ!)

同じところもあれば、異なっているところもある。
もっとも分かりやすい差異は、エスキモーのあやとりは〝舌も使う〟ことです。

だいたいエスキモーは口を第三の手のように巧みに使うそうなので、そこは生活文化の違いが遊びの違いを生んでいるのでしょう。

こんなふうに世界への視点をもてることはとても嬉しい……! 同じところと違うところがある、やはり遊びの向こうには人間がいるのですね……☺️



まとめ

『子どもの遊びとうた』ぜひ読んでください!

この本は紹介されている遊びの種類が豊富で、その全てが子どもの実際的な動きとともに調査・分析されています。

悪口唄なども振るいわけずそのまま載せてくれているので、ありのままの子どものパワフルさが伝わってきます。(これは教則本などでは省かれてしまうものなので、とても貴重です。)

読んでいて笑いがあふれるような面白い本なのに、理解もしっかり深まります。ぜひ読んでほしい一冊です……!


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