【雑記】岩手山と岩木山
『岩手山と岩木山の画像をまちがえてマンションのチラシを作ってしまった』というニュースを見ました。
CGで写真を補正した時に、資料とするものを間違えたという凡ミス(理由は分かるけど確認不足〜⁈ )の結果らしいです。担当デザイナーさんは真っ青になっただろうなぁ、と思うと、自分まで胃が痛くなりそうな心地がします。
この規模の広告をうつには幾重かのチェックが入るものなので、当然、一人の責任でなく、チームでのチェックミス…という事にはなるのでしょう。「それが起きちゃう社内環境なんだ…」ということを察してしまうわけですが、この記事で書きたいと思ったことはまた別です。
私は、なんだか、ふるさとの象徴(アイコン)として『山』をもっていない自分に、ふと気づかされました。
東京の人間だから、神奈川の人間だから、と主語を大きくしたいわけでもないのですが、少なくとも私はそうなのです。
神奈川県民だから大山があるし、≪♪大山街道≫を歌いながらお手玉することに愛着はあるけど、景色としての大山はべつに頭に浮かばないのです。
大山の形が思い出せません。イマイチ、ピンとこない。
それは「冷たい」とか「郷土愛がない」と思われることかもしれませんが……。
『岩手山』は、岩手県盛岡市のシンボルです。
(ちなみに、岩木山は青森県弘前市の山です。)
(ちなみにちなみに、〝岩木山〟というお相撲さんもいました。青森出身の力士とのこと。)
……山の稜線というものに、どれくらいの人が関心と愛着をもっているものでしょうか?
まぁ、私は近くにいながらも大山(丹沢大山)登山をしたこともなければ、大山ロープウェイ🚡に乗ったこともない……。学校の社会科見学などでは、江ノ島の海や横浜には何度も行ったから、その地形はばっちり頭に入ってるけどね。
もちろん、鳥の名前や虫の名前は興味がないと覚えないように、単に山が好きかどうか、〝自然と覚えてしまう〟環境があるかどうかにもよると思います。
うちの兄貴は、登山部・ワンダーフォーゲル部の部長を務めた経験もあってか、いわゆる『日本百名山』や、名だたる山であれば稜線だけを見て「どの山か判別できる」という謎の能力をもっていますし……!
そこまでいくと、山オタクなんですが。
(好きかどうか、趣味歴の長さ、どれほどの熱意をもてるかによって違いはでますよね。)
でも、やはり母が福島なので、福島に里帰りして、山あいの景色を見ると、私も無性にホッとします。
全然、山のない地方に旅行でいったときなどは、「景色のなかに山がない! さみしい!」と思いました。
すこし前の里帰りでは、叔父がちょっと高いビルの上、見晴らしの良いところでコーヒーを飲ませてくれて、その眺望に私はハシャぎました。
高村光太郎が好きなのです。
「あれが阿多多羅山だよね!」と私があまりにも喜ぶので、それを見て、叔父も喜んでくれたようでした。
あぁ、こういう経験を積み重ねて、景色のなかに大切なものが増えていくのかもしれない、と思えました。
『岩手山と岩木山』のニュースは、
マンションの売り出しポイントとして〝景観の良さ〟を打ち出そうとしていた人たちが、〝景観〟をまちがえちゃう!っていうところが、すごい皮肉が効いている……と思ってしまいました。価値を理解してないのに価値を描こうとしちゃったの、資本主義そういうとこあるよな、と。
景観のなかでの〝山〟というもののアイコン性。
親しんでない人間にとっては、本当に分からないものなんだろう、私も真に分かってはいないんだろうと思います。
シンボル、象徴。いわゆる〝お国〟という意識が強く、日本人であることよりも『◯◯県民であること』や『何地方の方言を話すか』などにアイデンティティの基盤を置きがちなのは、日本人の特徴なのでしょう。
自分たちが自分たちであることを定義するもの、心の拠り所を必要とすること、その作り方は人それぞれです。
大事なことは、私たちは、『真に理解できてはいない』と思ったとしても、相手を慮る(おもんぱかる)ことができるし、分からないものにも敬意を払えるのが理性的な人間だということ……ではないかな……、と。そんなことを考えさせられたニュースでした。
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