『孟子』告子上172ー孟季子と公都子の対話(2)義はいずこより〈2〉

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*前回、公都子は、同門の孟季子にやり込められてしまいました。そこで、孟子から助言を受けた公都子は、孟季子のもとに向かうと、さっそくその話をしました。

孟季子は、公都子から、孟子の話を聞くとこのように言った。

「なるほど…、
では、叔父を敬う場合には、叔父を敬う。
そして、弟を敬うべきときには、弟を敬う。
こうした〈義〉にもとづく判断は、やはり外部から与えられたものだよね。やはり、内側から湧いて出てきたものではないね。」

公都子は言った。

「ぐぬぬ…。
冬はお湯を飲むよね。そして夏は水を飲む。
ということは、飲食の欲求も、外から与えられる、ということになってしまうよ。」

そして、公都子は、あらためて言った。

「そういえば告子はこのように言っているよ。

〈人間の性質には、善であるとか、善ではないとか、そもそも、そういったものが存在しないのだ。〉

そして、べつの人はこのように言っている。

〈人間の性質は、善にもなるし、善ではなくなってしまうものでもある。
それ故に、周の文王(ぶんおう)や武王(ぶおう)が即位すれば、民は善であろうとするし、周の幽王(れいおう)や厲王(れいおう)が即位すれば、民は暴力を好むようになってしまうのである。〉

さらに、べつの人がこう言っているね。

〈人間の性質には、そもそも善である人がいれば、性質がそもそも善ではない、という人もいる。
だから、尭(ぎょう)のような偉大な人物の治世でも、象(しょう)のようなヤツも出てくる。それに、瞽瞍(こそう)のような人間が父であるにもかかわらず、舜(しゅん)のような人物が出てくることもある。
それに、殷の紂王のような甥(おい)っこであっても、彼を君主として、支えようとする微子啓(びしけい)、王子比干(おうしひかん)のような人物もいるのだ。〉

やはり…、
人間の性質が善であるとするならば、告子や彼らが言っている三つの説はどれも間違っているということになるのではないかな。」

*以上、『孟子』告子上172ー孟季子と公都子の対話(2)義はいずこより〈2〉

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