『孟子』告子上170ー孟子と告子の対話(4)告子批判―仁内義外をただす

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告子は言った。

「さて、食欲と性欲は〈性(せい)〉、つまり人間としての性質です。
そして、〈仁(じん)〉は、人間の内側にあるのであって、外側からあたえられるものではありません。
ですが、〈義(ぎ)〉は外側からの作用によって引き起こされるものであり、内側にあるものではないのです。」

孟子は言った。

「なるほど、では何の根拠があって、〈仁〉は内から、〈義〉は外から、と言われるのですか。」

告子は言った。

「そこにいる彼が年長者であるとしましょう。私は、彼を年長者であると考えるでしょう。
ですが、私のなかに年長者という考え方があるから、彼を年長者としているわけではないのです。
もし彼が白ければ、私は彼を〈白い〉と考えるでしょう。彼の〈白さ〉に目を向けるのは、外側からの作用です。

故に、人としてのふるまいである義は、外側からの作用によって引き起こされる、と言うのです。」

孟子は言った。

「馬のなかでも白いウマと、〈白い〉は異なるモノのはずだが…。
ですが、人のなかでも肌が白いヒトと、〈白い〉は異なるモノではない、とおっしゃるのですか。
馬の中でも年長の馬を、年長者としてうやまうなどとは、知らなかった。
人間が、年長者を年長者としてあつかうことと、ちがいはない、ということですよね。

それに、年長者自身の存在そのものが〈義〉であるとおっしゃりたいのですか。
それとも、彼を年長者としてあつかう行為が〈義〉なのですか。」

告子は言った。

「人は、自分の弟であれば愛するものです。
ですが、はるか遠くの秦(しん)の人間の弟であれば、愛することはないでしょう。

愛するというのは、自分自身にとって喜ばしい行為なのです。故に、こうした〈仁〉は、人間の内側にあると言うのです。

ところが、はるか遠くの楚(そ)の人間の年長者については、年長者としてあつかうものです。そして、私たちの身近な年長者も、もちろん年長者としてあつかいます。

年長者をうやまうというのは、年長者の存在によって、喜びがもたらされる行為だからです。故に、こうした〈義〉にしたがった行為は、外側からの作用によると言えるのです。」

孟子は言った。

「なるほど…。ですが…、
秦の人間が焼肉を好むことと、私が焼肉を好むことと、ちがいは存在しません。
これは、万物にも、そのまま当てはめることができます。
ならばはたして、焼肉を好むことは、外側からの作用によるものなのでしょうか。」

*孟子は、年長者を敬うといった〈義〉にしたがった行為、つまりマナーは、人間がもともとそなえる性質、本能であると考えていました。
一方、告子は、食欲や性欲こそが人間の本能であり、マナーを守ることは、外部の環境によって与えられた結果であると考えていました。

今回の議論で孟子は、なぜ食欲や性欲が本能で、マナーを守ることが本能ではないのか、そのちがいを説明しない告子を批判しています。

では、はたして、どちらが正しいのでしょうか。それとも、どちらも間違っているのでしょうか。
それは、本書を手に取られている、あなたに、ご判断いただければと思います。

*以上、『孟子』告子上170ー孟子と告子の対話(4)告子批判―仁内義外をただす

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