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『孟子』07―梁恵王上―孟子と斉の宣王の対話(1)牛を哀れむ〈2〉

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孟子は言った。

「王よ、庶民が王が牛を惜しんだと噂することに疑問を持ってはいけません。
はたから見れば、小さな羊を大きな牛に換えたようにしか見えません。
ですから、彼らが王の心の中まで理解できるはずがないのです。
それに、王は牛が罪なくして死地に連れて行かれることを哀れみましたが、羊にしたって哀れなことは同じことです。」

王は笑って言った。

「これはまた、本当にどうして……、心がどうかしてしまったのであろう。
私は貴重な牛を惜しんだわけではなかったのだ。
だが考えてみれば、これを羊に換えたのだから、庶民が私がケチったと噂しても仕方ないことだ。」

孟子は言った。

「気に止む必要はありません。
王の行ったことこそが、仁の作用なのです。
牛は目にしましたが、羊は直に見ていません。
君子は禽獣に対しても、その生きている様子を見ると、その死を不憫に思うものです。
そして、その声を聞いてしまうと、その肉を食べるのを不憫に思うものです。
だから君子は調理場を遠ざけるものなのです。」

王が喜んで言った。

「『詩経』に、
〈他人に心あれば、予(われ)はこれを忖度(そんたく)す〉とあるが、
先生のような人物を言っているのでしょう。
そもそも私は自分で行いながら、反省して自分の行動の理由を考えてみたが、自分の心を理解できていなかった。
先生の説明をいただき、私は心からなるほどと思いました。
ところで、この心が王者であるという理由は、どこにあるのですか。」

孟子が言った。

「王にこう申す者がおります。
〈我が力は百鈞をあげることができますが、鳥の羽一つあげることはできません。目は秋の獣の細かい毛の先まで見えますが、車に積んだ薪が見えません。〉

さて、このようにデタラメなことを言われて、王はこの者を許されますか。」

王は言った。

「いや。」

孟子は言った。

「ならば今、王の恩恵は、牛にまで及んでいながら、その効果が庶民に及ばない、ただただ庶民にだけ及ばない、これはどういうことでしょう。
されば、鳥の羽一つ挙げられないというのは、力を入れていないということです。
車の薪が見えないというのは、見ようとしていないだけなのです。
庶民が安心できないということは、庶民に恩恵を及ぼそうとしていないのです。
ですから王が、王者ではないというのは、王者になろうとしていないだけのことであり、できないわけではないのです。」

*以上、『孟子』07―牛を哀れむ〈2〉

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【原文】
曰、「王無異於百姓之以王為愛也。以小易大、彼惡知之。王若隱其無罪而就死地、則牛羊何擇焉。」王笑曰、「是誠何心哉。我非愛其財。而易之以羊也、宜乎百姓之謂我愛也。」曰、「無傷也、是乃仁術也、見牛未見羊也。君子之於禽獸也、見其生、不忍見其死。聞其聲、不忍食其肉。是以君子遠庖廚也。」王說曰、「『詩』云、〈他人有心、予忖度之。〉夫子之謂也。夫我乃行之、反而求之、不得吾心。夫子言之、於我心有戚戚焉。此心之所以合於王者、何也。」曰、「有復於王者曰、〈吾力足以舉百鈞〉、而不足以舉一羽。〈明足以察秋毫之末〉、而不見輿薪、則王許之乎。」曰、「否。」「今恩足以及禽獸、而功不至於百姓者、獨何與。然則一羽之不舉、為不用力焉。輿薪之不見、為不用明焉、百姓之不見保、為不用恩焉。故王之不王、不為也、非不能也。」

*ヘッダー画像:Wikipedia「孟子」

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