『孟子』告子上178ー孟子の言葉(61) 生死よりも大切なこと
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孟子は言った。
「魚であれば、私も食べたい。
クマの手も、やはり私も食べたい。
だが、両者をいっぺんに食べることができないとなれば、私は魚を捨てて、クマの手を選ぶだろう。
さて生きることは、私が望むことである。そして、義をつらぬくことも、やはり私の望むことである。では、両者を同時に取ることができないとなれば、生きることを捨てて、義をつらぬくことを選ぶであろう。
生きることは、私だって望んでいる。だが、私の欲求のなかでは、生きることよりも切実なものがあるのだ。
それ故に、望みどおりにならなくとも、こだわらないのである。
死ぬことは、私だって憎むことである。だが、死ぬことよりも憎むべきことがあるのだ。だからこそ、どれだけ苦悩したとしても、そこから逃げず、ふみとどまることができるのだ。
もし、人々を、望むことは生きることだけ、と思うように仕向けてしまえば、ほとんどの人は、生きるために、どんなことでもしでかすようになるだろう。
もし、人々を、憎悪すべきは死ぬことだけ、と思うように仕向けてしまえば、ほとんどの場合、死という苦悩を避けるためならば、どんなことでも、しでかさないことはなくなるだろう。
だが、このゆずれないモノがある限り、生きることに、そこまで拘らないことがある。
そして、このゆずれないモノがある限り、死の苦悩を避けることに、そこまで拘らないということもあるのだ。
それ故に、生きることよりも大切な望みは存在する。
死よりも激しく憎むべきものが存在する。
ただ賢者だけが、その心をそなえているわけではない。人であれば、誰しもその心があるのだ。賢者は、その心を失っていないだけだ。
一杯の竹の器の飯、一杯の木の器の吸い物。
これを飲めば生きながらえ、なければ死んでしまいそうな人がいたとしよう。
そして、怒鳴り散らすように、この人物に食事を与えるのだ。
そんなことをすれば、道端の庶民ですら、それを受け取りはしないだろう。
それに、足で蹴って食事をよこすとしよう。乞食ですら、素直に受け取りはしないだろう。
ところが、である…。
一万鐘(しょう)ほどの大金になると、そんな礼儀などおかまいなしに、それを受け取ってしまうのだ。
一万鐘ほどの大金があるとして、自分ひとりで、どこまで使い切れるというのか。
住居を立派なものにするのか。
妻や妾のためにつぎ込んでやるのか。
知人が困窮していれば自己満足のためにめぐんでやるのか。
先ほどまで、自分の身が死ぬかもしれなかった。それでも、食事を受けなかった。
ところが今や住居を豪華にするために受け取ると言うのか。
先ほどまで、自分の身が死ぬかもしれなかった。それでも、食事を受けなかった。
だが、今や、妻や妾につぎ込むために受け取ると言うのか。
先ほどは自分の身が死ぬかもしれなかった。なのに、食事を受けなかった。
ところが、知人が困窮しているからと、自己満足のためにめぐんでやるのか。
これは、はたしてやむを得ないことなのか。
こういうのを、〈自分の本来の心を失う〉と言うのだ。」
*以上、『孟子』告子上178ー孟子の言葉(61) 生死よりも大切なこと
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