『孟子』告子上178ー孟子の言葉(61) 生死よりも大切なこと 支那・中国古典シンプル全訳 2021年12月31日 21:20 ◆全訳はこちら↓ 孟子 もうし ―全訳―(支那・中国古典シンプル全訳シリーズ) www.amazon.co.jp 1,250円 (2022年03月04日 17:00時点 詳しくはこちら) Amazon.co.jpで購入する 孟子は言った。「魚であれば、私も食べたい。クマの手も、やはり私も食べたい。だが、両者をいっぺんに食べることができないとなれば、私は魚を捨てて、クマの手を選ぶだろう。さて生きることは、私が望むことである。そして、義をつらぬくことも、やはり私の望むことである。では、両者を同時に取ることができないとなれば、生きることを捨てて、義をつらぬくことを選ぶであろう。生きることは、私だって望んでいる。だが、私の欲求のなかでは、生きることよりも切実なものがあるのだ。それ故に、望みどおりにならなくとも、こだわらないのである。死ぬことは、私だって憎むことである。だが、死ぬことよりも憎むべきことがあるのだ。だからこそ、どれだけ苦悩したとしても、そこから逃げず、ふみとどまることができるのだ。もし、人々を、望むことは生きることだけ、と思うように仕向けてしまえば、ほとんどの人は、生きるために、どんなことでもしでかすようになるだろう。もし、人々を、憎悪すべきは死ぬことだけ、と思うように仕向けてしまえば、ほとんどの場合、死という苦悩を避けるためならば、どんなことでも、しでかさないことはなくなるだろう。だが、このゆずれないモノがある限り、生きることに、そこまで拘らないことがある。そして、このゆずれないモノがある限り、死の苦悩を避けることに、そこまで拘らないということもあるのだ。それ故に、生きることよりも大切な望みは存在する。死よりも激しく憎むべきものが存在する。ただ賢者だけが、その心をそなえているわけではない。人であれば、誰しもその心があるのだ。賢者は、その心を失っていないだけだ。一杯の竹の器の飯、一杯の木の器の吸い物。これを飲めば生きながらえ、なければ死んでしまいそうな人がいたとしよう。そして、怒鳴り散らすように、この人物に食事を与えるのだ。そんなことをすれば、道端の庶民ですら、それを受け取りはしないだろう。それに、足で蹴って食事をよこすとしよう。乞食ですら、素直に受け取りはしないだろう。ところが、である…。一万鐘(しょう)ほどの大金になると、そんな礼儀などおかまいなしに、それを受け取ってしまうのだ。一万鐘ほどの大金があるとして、自分ひとりで、どこまで使い切れるというのか。住居を立派なものにするのか。妻や妾のためにつぎ込んでやるのか。知人が困窮していれば自己満足のためにめぐんでやるのか。先ほどまで、自分の身が死ぬかもしれなかった。それでも、食事を受けなかった。ところが今や住居を豪華にするために受け取ると言うのか。先ほどまで、自分の身が死ぬかもしれなかった。それでも、食事を受けなかった。だが、今や、妻や妾につぎ込むために受け取ると言うのか。先ほどは自分の身が死ぬかもしれなかった。なのに、食事を受けなかった。ところが、知人が困窮しているからと、自己満足のためにめぐんでやるのか。これは、はたしてやむを得ないことなのか。こういうのを、〈自分の本来の心を失う〉と言うのだ。」*以上、『孟子』告子上178ー孟子の言葉(61) 生死よりも大切なこと ◆音声で聴きたい方はこちら↓(制作途中) ダウンロード copy #哲学 #古典 #東洋思想 #諸子百家 この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか? 記事をサポート