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魯と孔子――国際政治と「仁」

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「仁」とはなにか? 春秋戦国時代の魯と孔子との関係を見ながら、「仁」とはなんだったのか考えていこうと思います。
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#春秋戦国時代

魯と孔子19ー三桓氏の変質ー「牛人」をめぐる国際情勢(11)ー勝者は誰か

この「牛人」の陰謀の勝者は誰だったのであろうか。 結果論で言えば、叔孫鄀(しゅくそんじゃ…

魯と孔子18ー三桓氏の変質ー「牛人」をめぐる国際情勢(10)ー「牛人」の最期

前537年、それは突然起こった。 叔孫鄀(しゅくそんじゃく)が、正式に叔孫氏の当主の座につく…

魯と孔子17ー三桓氏の変質ー「牛人」をめぐる国際情勢(9)ー豎牛の勝利, そして…

前537年、叔孫豹の葬儀が終わると、斉に逃げていた仲壬(ちゅうじん)が帰ってきた。彼は、叔…

魯と孔子13ー三桓氏の変質ー 「牛人」をめぐる国際情勢(5), 叔孫豹の葬儀

前566年、魯は、対斉戦の要衝である費を城塞化した。費は、季孫氏の領地である。 この費の城塞…

魯と孔子12 ー三桓氏の変質ー「牛人」をめぐる国際情勢(4), 魯の軍制改革

中島敦「牛人」の物語の結末は、叔孫豹の餓死である。 落とし子の恨みか、もっとどす黒い何か…

魯と孔子11ー三桓氏の変質ー「牛人」をめぐる国際情勢(3)ー南遺という人物

叔孫豹が没した前538年、叔孫氏を掌握した豎牛(じゅぎゅう)は、ある人物に接触を図った。 季…

魯と孔子10ー三桓氏の変質ー「牛人」をめぐる国際情勢(2)

前538年、三桓氏の一角である叔孫氏の当主、叔孫豹が死んだ。 豎牛は、叔孫豹の庶子である叔孫婼(しゃく)を擁立してその補佐となった。 この豎牛が、魯の国政を担う叔孫氏をなぜここまで掌握できたのか。 不明な点は、多い。ただ、彼の振る舞いを見ていると、とにかく周囲の者同士を争わせ、結果として自分の立場を強化する、そうした謀略に長けていたようである。では、はたして彼は叔孫豹を追い詰めていく中で、その後のことをどのように考えていたのであろうか。 これは後の結果からの推測でしかない

魯と孔子9ー三桓氏の変質ー「牛人」をめぐる国際情勢(1)

前538年、南方では楚と呉の抗争が本格化しつつあった。同じ頃、魯はふたたび莒の混乱を突いて…

魯と孔子8ー楚、呉の浸透(2)

魯の東方、斉の南方に莒(キョ)という公国がある。 当時、山東半島の南部地域は斉、魯、莒の…

魯と孔子6ー晋・楚の和平と春秋後期

前545年、宋を仲介役として晋、楚の間で和平が結ばれた。この和平締結には、晋と対立してきた…

魯と孔子5ー三桓氏の利権抗争

宣公の後、成公(在位、前591年〜前573年)の治世に入ると、季孫行父、叔孫僑如、孟献子がそれ…

魯と孔子4ー君主権力と三桓氏の相克

魯の君主と三桓氏との目立った抗争は、まず宣公の代に起きた。 公孫帰父という人物がいる。魯…

魯ー孔子が登場するまで3ー三桓氏

いつ頃からか、魯の権力中枢は三桓氏と呼ばれる三つの氏族に掌握されていた。三桓氏とは、かつ…

魯ー孔子が登場するまで2

この頃、それまで緩衝地帯であった宋、鄭、蔡、陳が明確に楚連合に入っていた。前592年には、同盟の再編を図る晋のもと、魯は再びこの同盟に参加している。この際、晋は斉を同盟に取り込もうとするが、斉の晋の使者に対する態度への報復として、斉の同盟への参加を拒否した。斉もまた晋に対して挑戦的立場に立ったと言える。翌年、前591年には晋・衛連合軍が斉に侵攻、斉を屈服させている。 前590年、魯では代替わりがあった。この年、斉と楚が結んだという情報が駆け巡る。これに対応すべく魯は、対斉戦を