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魯と孔子4ー君主権力と三桓氏の相克

魯の君主と三桓氏との目立った抗争は、まず宣公の代に起きた。
公孫帰父という人物がいる。魯の隣国である邾、莒への侵攻、斉や晋、楚への使者としてたびたび登場する、宣公治世下の魯の中心人物である。
先代、魯の文公(在位:前626年〜前609年)の後継者争いは凄惨であった。文公の正夫人である姜氏との間には二人の公子がいたが、いずれも殺害された。文公の次に即位したのは、第二夫人の子である宣公であった。
この際、宣公を後押ししたのが公子遂(東門襄仲とも)である。この公子遂の子が公孫帰父であった。宣公は、公孫帰父を対外政策の中心に据えることで、三桓氏に対抗させようとしたのであろう。
前591年、宣公は晩年に急いだのであろうか、三桓氏排除の後援を晋に求めるべく、公孫帰父を晋に送り出している。だが、その直後、宣公は没した。外地で取り残された公孫帰父は、そのまま斉に亡命した。この後、晋と魯の結びつきの恩恵を受けるのは、三桓氏であった。
三桓氏の立場が強化されていく中で、次に起きたのは三桓氏同士の抗争である。

*ヘッダー画像:ウィキペディア「孔子」

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