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魯と孔子9ー三桓氏の変質ー「牛人」をめぐる国際情勢(1)


前538年、南方では楚と呉の抗争が本格化しつつあった。同じ頃、魯はふたたび莒の混乱を突いて、莒側であった小国の鄶(ショウ)を占領している。

この年、魯の重要人物が没した。三桓氏の一角にして、叔孫氏の当主である叔孫豹である。魯にとっては、晋・楚の抗争から和平という国際情勢の激変の中で外交の舵取りを行った大殊勲者であった。
だが、その最期は悲惨であった。
中島敦の短編小説に「牛人」というものがある。モデルとなったのは、この叔孫豹の最期をめぐる逸話である。

かつて、叔孫豹が斉に亡命する途上、とある夫人と一夜を共にしたことがあった。どうやらその夫人はそこで妊娠したようである。だが、叔孫豹はそのまま斉に入り、その後、国氏の女を妻として二人の子をもうけている。
兄の叔孫僑如が、孟孫氏、季孫氏の家産を奪おうと政治闘争を仕掛けて敗北、斉に亡命してきたのはこの後のことである。

叔孫僑如は、罪を許されることなく斉で生涯を終えるが、その弟である叔孫豹は、魯への帰国が認められた。
叔孫豹は、叔孫氏の当主となると、例の夫人が息子を連れてやってきた。叔孫豹は、この子供を気に入り、「牛」と呼んで小姓とし、彼が成長すると家政を任せるようになった。
彼は小姓の「牛」という意味で、豎牛と呼ばれた。そして、晩年の叔孫豹の身の回りの世話は、この豎牛が一手に取り仕切るようになった。

叔孫豹と国氏との間にできた斉の二人の息子は、諸々の事情により、成長してから魯に迎えられた。
この二人の息子のうち、一人は叔孫豹によって殺害された。
豎牛は、彼に叔孫豹の言伝を曲げて伝え、あたかも叔孫豹に反発しているかのように仕向け、叔孫豹自身の手で殺害させた。豎牛は、さらにもう一人の息子も、同様に叔孫豹自身の手で殺害させようとしたが、こちらの方は状況を察して母方の斉に逃げた。

叔孫豹は病にかかり、症状が悪化すると、斉に逃げた息子を呼び戻すよう豎牛に命じた。だが、豎牛は口で応じるばかりで呼び戻すことはしなかった。そして、豎牛は、病床の叔孫豹に食事を出さなくなった。

全てを察した叔孫豹は、見舞いにきた家宰の杜洩(とせつ)なる人物に豎牛を殺害するように戈を渡した。この杜洩は、叔孫豹の忠実な家宰であった。
だが、そんな彼ですら状況を正しく理解できなかった。
彼は、叔孫豹が一時の空腹で機嫌が悪いのだろう、くらいにしか考えなかった。
叔孫豹は、助けを求める術を完全に絶たれた。

前538年12月癸丑の日、叔孫豹は死んだ。病死か餓死か、それはわからない。

*ヘッダー画像:Wikipedia「中島敦」

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