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魯ー孔子が登場するまで3ー三桓氏

いつ頃からか、魯の権力中枢は三桓氏と呼ばれる三つの氏族に掌握されていた。三桓氏とは、かつて暗殺された桓公の息子たち三兄弟を始祖とする氏族で、叔孫氏、季孫氏、孟孫氏(仲孫氏)を指す。

『春秋』を見ると、前646年に叔孫戴伯が魯軍を率いて陳を攻めたことが記載されている。そして、前621年には季孫行父が陳、晋への使者として登場し、前600年に周の王都への使者として仲孫蔑の名が見える。
最初の叔孫戴伯の登場時期は、ちょうど斉の桓公が覇者として対楚同盟を構築していた時期にあたる。時代が大きな変化を見せていく時期とともに台頭してきたことが窺える。

こうした特定の氏族が台頭してきた背景として、多国間同盟の深化による軍事外交の高度化がある。あらゆる分野において高度化は、人材の固定化を招いていく。ある氏族や人物に責任が集中、既得権益化が繰り返されていく中で、権力中枢の構成人員もまた、彼らによって固定化されていった。魯だけでなく、晋の六卿、斉の六卿、鄭の七穆など、晋の覇者体制が安定するこの時期には、有力国がいずれも軍事外交の中で成長した特定氏族によって権力中枢が掌握されている。

三桓氏に話を戻すと、その権力掌握により、魯の国内では2つの内紛の因子が芽生えることとなった。一つ目は君主と三桓氏の権力闘争、二つ目は三桓氏同士での利権抗争である。

*ヘッダー画像:https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%98%A5%E7%A7%8B%E6%99%82%E4%BB%A3#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB%3A%E6%98%A5%E7%A7%8B%E5%9C%B0%E5%9B%BE.jpg

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