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どうして

 あなたは誰なの? 大好きだった男が隣にいてけれどどうしてかあなたではないあなたがあたしになにか話しかけていて、あ、ふうん。あ、そうなんだ。へえ。たいへんなんだね。そんな雑な相槌を打ってはいるけれどもうこの人はあの頃のあの人ではないことに気付いてしまい胸の中が暴風雨によってさらされた森のようにざわめき今にでも顔を両手で覆っておいおいと声をあげて喚き泣きたい衝動に駆られる。

 助手席から窓の外に目を落とす。遠くの空はひどくグレーな雲がたちこめている。無言が車内にうるさい。無言が苦しい。それでもあたしも男ももう無理に言葉を探さない。

 気づいたらどうでもいいことをしかし独り言のようにつぶやくからなんならTwitterやれよと突っ込みたくなるほどの140字ほどの単語は一文字一文字が空中で浮いてバラバラなりはらはらと散ってゆく。その破片をあたしは吸う。不味い。以前なら男の腐った愚痴とかでも満足に腹一杯楽しめたのにな。新鮮な甘いシャインマスカットの粒だったころの言葉をまた思い出す。思い出したところでもうあのころのシャインマスカット時代は決して戻ってはこない。時間はときにひどく残酷な誰にも抗えない目に見えない物体に過ぎない。

「わっ! ここら辺久しぶりに来たよ」運転免許のないあたしだから誰かと来ないと変わってゆく景色に遭遇することがない。その場所もやはり昔隣にいる男と来た。ん? あ、ここ? もうかなり前からいろいろ出来てたよ。あ、ほらこのドラックストアさ、俺がみたところとよく見かけるチェーン店のドラックストアを横切るタイミングでさらっといわれる。え? こんな市内の現場だったことにおどろき声もでない。「へえ、あ、そうなんだね」とだいぶ経ってからこごえでささやくと、え? なにが? と男がなんのことかさっぱりわからないなてきな声をだし、サングラスをとる。けれどもう説明もめんどくさかったから首をよこにふって力なくほほえんだ。着いた。といい、あ、まだいるのかとひとりごとをいいおえたあと、ちょっと待っててといい今日引き渡し終えたはずの歯医者に入っていく。最近まで隣町の歯医者が現場で今日まさに引き渡しだったのに肝心の鍵を忘れてきてしまいホテルからでたあと急に忘れてきたことを思い出してとりにきたのだ。鍵の番号がないと書類が作成出来ないとかなんとかいっていたからまあ大事なものなんだろう。

 男はすぐに戻ってきて、わっ、早く書類つくらないといけないと切羽詰まった声をだす。忘れてきた俺が一番悪いんだけどねとさらに続ける。 あたしにとっては男の今の状況下が全くわからないので返事のしようもない。けれど時間をつくってあたしに会いあたしに時間をさくということ自体とても申し訳がないと同時に口にはださなくても多少なりはまだ好きなのかもしれないなとも感じる。そもそもの話好きでもなんでもない女に自分の時間をさいたりなどはしない。ましてや家庭もあってなにしろリスクがだらけでメリットなどシャンプーだけでいいくらいにまるでない。そうふと考える。やりたいだけやってよしやってさようなら。もしかしたら好きな男にはそのむかつく行為だけはとても贅沢なことかもしれない。特になにも望まない。いや望んではならない。会えるだけでいい。もう決して引き返せないところにいるのだから。

 何度もしてもまるで飽きないセックスだけで繋がった関係。けれどそれさえもひどく奇跡に近いものなのかもしれない。どうして男はあたしを抱くのだろう。あたしも抱かれるのだろう。男と女だからこその最終的な行為だしもう深く考えたくないと目をぎゅっとつぶる。

「足っていつ治るの?」ちょうど帰宅ラッシュの時間にはまってしまい男が急に話しかけるからはっとおどろく。なにおどろいてるの。はははと男は目を細めて微笑んだ。「あと一ヶ月くらいかな。けどわかんないよ。でもセックスは出来るからね」あたしはクスクス笑う。バカか。男は耳朶を赤らめつつあたしをみつめた。

 おもてはまだグレーな空をかもしだしそして夜になる準備にとりかかっている。あー眠いなと男は大きなあくびをしたから、何時に起きたのと訊く。

「4時」まあいつものことだけどねといいまたあくびをする。ダッシュボードの上に新しい図面。工程表。あたしは建築士の男が好きだ。

 おやすみなさい。と車から降りる。じゃあな。男は手を振る。さようならとは決していわない。男もあたしも。きっとそれは最後のあがきなのかもしれない。

 松葉杖をついて車まで歩く。コツコツと響く松葉杖の音と湿った空気に包まれて今までいた男のもっていた空気や匂いが時間とともにだんだんと薄くなっていくのがとてもさみしくあたしはまた壊れた涙腺から涙を流す。

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