ネオリベラリズムに無自覚のうちに絡み取られることに自覚的になること

桜井智恵子(2021)『教育は社会をどう変えたのか:個人化をもたらすリベラリズムの暴力』(明石書店)を読み終えた。これまでもパラパラと呼んでいたものの、きちんと読み通すことができた。「分離=統合」(岡村達雄, p.117)や「個別化し包摂する統治」(フーコー, p.226)など、リベラリズムに対して、色々と考えを巡らせる機会を与えてくれた。

個人化を問う「能力の共同性」と、資本主義を問う「存在承認」という2つの大きなキーワードから、現代に大きな問題提起をする。桜井さんは「能力の共同性」について「能力とは、分かちもたれて現れたものであり、それゆえその力は関係的であり共同のものであり、能力は個に還元できない」ものだと打ち出した。「依存先を増やす」といった個人化された共同性は、簡単にネオリベラリズムに利用されるからだという。「存在承認」についても、決して「あなたの存在を認めるよ」といった承認論ではなく、「共同的なものを基底に、自分を自分で承認しうる所得配分を前提にした状況」と整理している(p.261)。非常に興味深い内容だった。

その中でも印象的な文章を抜き出してみたい。

私たちは、教育や政策の方向性を「新自由主義」批判というスタンスをとることで分かったふうになりがちだ。果たして、それはどのように機能しているのか。能力でキャリアを重ねることが当たり前の後期近代以降に育った人々は何の疑いも無く、むしろ使命感さえもち教育やテストを基盤として社会を作ろうと邁進している。能力をつけ努力する―この価値観を重ねてきた若手キャリアたちにとって、能力主義の原理を疑うなどほとんど不可能である。彼らはまさに、私たち社会が育てたモンスターなのである。

桜井智恵子(2021)『教育は社会をどう変えたのか』明石書店, p.209

リベラリズムの能力主義が浸透した時代に生まれた私は、どのようにして能力主義の原理を認識できるのか。何も考えなければ、能力主義の社会の再生産に無意識のうちに加担してしまう。そうした問い直しの視点の必要性に気づかせてくれる。新自由主義を批判しているのだ、というところで満足してしまうのではなく、それがどのようにして論理づけられ、能力主義の文脈に絡めとられているのか。それを丁寧に見ていく必要があると思う。以下の文章も印象的だった。

成長と競争の徹底に伴走された個人化という思想は、教育現場をさんざんに荒らしてきた。学校も家庭も教育責任を強め、子ども自身は意欲がなくてもテストの点数はかせぐというスタイルを学習してきた。違和感を感じる子どもは不登校で命をつなぐしかなくなる。最近は、その現場に「満足している」という若手教員たちに出会うようになった。教育における個人化と経済がどうつながっているか話されることもほとんどない。つながりが見えにくいのだ。

桜井智恵子(2021)『教育は社会をどう変えたのか』明石書店, p.65

「満足している」という若手教員の登場は、自分自身も個人化という思想のなかで生きてきたからこそだろう。私自身もそうなり得るということである。無意識のうちにリベラリズムのなかに絡めとられていく。そこに自覚的になることが大切だと思う。

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