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写真に残すことの意義

風景というのは、日常の暮らしの中で常に視界に入っているもの。

しかし、いざ、10年前、20年前の風景を正確に思い出してみようといわれたとして。どの程度正確に描写できるものだろうか。

もちろん、世の中には見た風景を見たまま、正確に記憶し、そして絵に描ける人もいる。しかし、おそらく割合的には正確に思い出せない人の方が大多数なのではなかろうか。

案外、風景は見ているようで見ていないものなのかもしれない。


2019年 清瀬駅近傍にて
2019年 西国分寺駅にて

私は写真を撮影するのが趣味で。
尤も、決して上手とは言えず、ピンボケや駄作の山ではあるのだけれど。

しかし、懲りずに暇を見ては撮影し、そんなデータが気づけばものすごい量になっている。

さっと2019年の写真をあさってみたら、すでにその路線では使われていない列車が写っている。もちろん、撮影した時はそんなことは何も考えていない。なんとなく、撮影したいから撮影した。そんな写真ばかりである。


2019年に撮影した近所のお風呂屋さん

もちろん、時にはわざわざ撮影する場合もある。近所のお風呂屋さんが閉店するとの情報が入った時には、すぐに撮影に出かけた。今、この場所はマンションとなり跡形もない。
写真に撮影したことで正確な外観が記録できたけれど、おそらく、写真にとらなければもう、正確な姿は思い出せなかったと思う。


2006年 国立駅南口
2006年 小平市消防団第八分団車庫跡地の火の見やぐら
2006年 警視庁小平警察署喜平橋交番

もともと、私は写真を撮るときはただ単に、撮影しておきたい、そんな気持ちだけだった。フィルム写真からデジカメが主流になった頃。フィルムの制限という呪縛から解放され、「撮りまくる」ことに抵抗がなくなったのも大きい。デジカメを手に入れてから、心赴くまま撮りまくった。
しかし、当時は興味の向くまま撮っていただけ。撮った写真が、時間を経て「記録」となると気づいたのは、結構後になってから。社会人になってからかもしれない。

大学時代にとりまくった写真。当時は「暗くなっちゃったなぁ」「手ぶれしているなぁ」いろいろひどかったのだけれど、でも、なぜか「消去」せず。
何年も経ち、撮った写真を見返してみた時。
「国立駅の三角屋根の現役時代の写真だ!」
「この火の見やぐら、無くなっちゃったんだよなぁ」
「喜平橋交番、今駐在所になったんだよなぁ」

かつて取りまくった写真が、時の流れに失われた風景をしっかり「記録」していることに気が付き。以来、過去に撮影したデータは常に複数のハードディスクに記録し、消えないように気を付けていて。

現代はインターネットが普及し、手軽に写真撮影ができるようになった分、逆にいろいろな問題が発生して昔以上に気を使う時代となってしまい。特に「人物」が写る写真に対しては相当気を遣うようになった。まぁしかし、そこはアングルを切り取る「腕」の見せどころなのかと思って割り切っている。

それ以上に気になっているのが。
最近はSNSの普及でセルフィーとか、あと「映え」を狙った写真など、テクニックがいろいろ話題になっている。
もちろん、それらは「文化」として否定をするつもりは皆目ないのだけれど、写真の本来の目的である「目の前に見えているありのままの風景を『記録』する」その役割は変わらないのではないかと感じ。

「映え」もいいけれど、せっかく、手軽に写真を撮れる時代になったのだから。
ありのままの一瞬で流れ去っていく風景の瞬間、そこを切り取る、記録としての価値を、もっともっと見いだせないものかと、考えてしまう今日この頃。



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