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10年。

2021.03.11。
東日本大震災から今年で10年。
10年も経つのか、というのが率直な感想。
昨日の事の様にとまではいかないけど、現地で被災した身としてはそんなに昔の事でもない気がしてる。

先日福島、宮城で大きい地震があった時に自分が今住んでいる地域では緊急地震速報が鳴った。
速報が鳴ってから揺れが来るまでの時間が早い。
俺はこれを知ってる。
10年前のあの日が一瞬で蘇った。
総毛立つというか、背筋がザワっとしたというか、直感的にこれはまずいやつだ、そう思った。
嫌な予感がしてすぐに実家の情報を調べたら、震度6強。
神へも祈る思いで家族に電話を掛け続けた。
幸い家族、友達たちは皆無事で安心したが、地震慣れしてる自分ですらトラウマ的な物が植え付けられてるのかもしれないと思った瞬間だった。

そんな事もあったからなのか、より昔の事だと感じない3.11。

10年経ったからこそ少しだけ記憶を辿ろうと思う。

2011.03.11。
14時46分。
聞き覚えの無い携帯の音。
何だ?この音。
緊急地震速…?
読み終えるかどうかのその時。

地震。

地鳴りと共に尋常じゃない激しい縦揺れ。
俺はテレビを抑えたまま一歩も動けず、ただただ崩壊していく部屋を見続けるしかなかった。
何とか余震と余震の隙間で必要な物を掻き集め外に飛び出る。
まだ地面が揺れているのが分かる。
姉から電話が入り、会社から帰宅命令が出たとの事。
一緒に居た方が良いという話になり姉の家へ向かう。
姉の家に向かう途中、色を失った信号機はその役目を果たせず街中至る所からクラクションが叫び声を上げ、マンションの上からは雪と共にコンクリートの欠片が降ってきた。

死ぬかもしれない。

それはまるで漫画の「ドラゴンヘッド」のようで今日で世界は…世界でなくてもこの国は終わるんだ、もう何度目か分からない余震の中で本気で思った。

悔いはあるだろうか。

そんな事を考えながら姉と合流し、家族全員の無事も確認。
蝋燭で部屋の灯りを確保しながら電気、ガス、水も無い、さてどうしたもんかと冷静な自分も居た。

しかしそんな冷静さを吹き飛ばす信じられない光景を、電気を失い充電も出来ない中何とか情報を探さねばと(当時はガラケー)思いついた姉のカーナビのテレビで震災2日目の早朝に目の当たりにする。

それは画面中水浸しの映像。
ライブ中継は、相馬市上空。

何だ…これ?
相馬って、相馬の事だよな?
何だよ…何だよこれ!
何でこんな事になってんだよ!

津波が起きた事なんて知らなかった。

自分の街が、隣町が、福島、宮城、岩手で津波があったなんてこの時初めて知ったんだ。

震災当日家族の無事を確認した後に起こったのか?
石巻の親戚は?
浜の方に住んでた友達は?

もう訳が分からない。

早く電気だけでも復旧してくれ。
その願いが通じたのか電気の復旧が何よりも早く3日後くらいには復旧した気がする(記憶が曖昧な部分があるのですみません)

やっと充電出来た携帯電話には物凄い数の留守電とメールが来ていた。
泣きながら心配のメッセージを吹き込んでくれた友達も居た。
一人一人に連絡をさせてもらって無事を伝えた。
泣きながら心配してくれた友達は、「生きてたーー!!」って又泣いてた。

家族には幸い早い段階で再度無事の確認が取れたが、石巻の親戚は安否不明だった。

災害掲示板などで訴えかけたりもしたが、返答はなく、同じようにその親戚を探す人が居たので連絡を取り合ってみたが進展は無かった。

そこから約1週間。

色々な手を尽くし、もうダメかと思ったその時に無事の確認が取れた。

今改めて思うのは俺を含め取り巻く全て無事だったのは、ただ運が良かった。
それだけなんだと思う。

徐々に明らかになってくる災害の大きさや、増え続ける犠牲者の数。
そして、福島原発の事故。
当時の政権、東京電力は否定してたが、現地の俺たちはきっとメルトダウンしてると思っていた。(後にメルトダウンしていたと公表)

こうして電気はあるが水、ガスの無い半サバイバルのような生活が始まる。
(その後、俺の住んでた地域は約2週間で水が、約1ヶ月後にガスが回復)


やり場の無い怒りや哀しみがたくさんあった。
反面その中で人の優しさに触れる機会もたくさんあった。

水が出ないならうちの井戸水使いなさいと言ってくれた隣家のお婆ちゃん。

停電の中で蝋燭を灯しながら、皆に行き渡る様に食料を販売してくれた個人商店のご家族。

買い物に行くといつも気にかけて声をかけてくれた商店街青年会のパン屋のお兄さん。

全国から駆けつけてくれたボランティアの方々。

自衛隊の皆さん。

他にもまだまだ、上げ出したらキリがないけど。

そして、この場所からも届いたんだ。

まだ物流もままならなかった時、僅かな食料を求めてスーパーに早朝から並んでも1人10点まで(尚且つ同じ物を複数買う事は禁止)という制限が掛けられていた。
そんなある日ダンボールが送られてきた。
その中にたくさんの食料品と共に入っていたダンボールの切れ端。
そこに書かれていたもの。

当時の高田馬場AREAのスタッフさん達が送ってくれたものだった。

もう一つ。
関東住まいの親友も同じように物資を届けてくれて、彼のお子さん(ライブも見に来てくれてた)からも

これは今でも俺の大切な大切な宝物です。
どれだけ助けられたか。
これらを見た時、張り詰めていた物が一気に溢れそうになった。
でも、堪えた。
泣かなかった。
何故?
だって、俺なんかよりもっと辛い思いをしてる人達が、哀しみの底で潰されそうな人達がまだまだ居るのに。
だから俺は、俺が泣くのは後で良いってその時思った。
皆が笑えるようになったらその笑顔を見て、良かったって泣けば良い。
そう思ったんだ。

震災から約2週間後。
3月25日。
相馬市松川浦近辺での写真。
1つの集落が存在してたはずだった場所です。



あれから10年。
2016.12.10には常磐線の相馬〜浜吉田間での運転が再開された。
これで再び仙台まで電車で行けるようになった。
めちゃくちゃだった沿岸部も大分整備され、新たな防波堤の建築や、新しい建物も目立つようになった。
老舗の旅館や、飲食店なんかも場所は移れど再開してたりして。
隣の南相馬市では騎馬武者ロックフェスという音楽フェスまで立ち上がっている。
羨ましい!笑。

そうやって少しずつ、一歩ずつ笑顔が戻ってきている。

だから俺も立ち止まっては居られない。

だって生きているんだから。
あの日生かされたんだから。
生きたくても生きれなかった命達の代わりに。

当時の哀しさと怒り、風化させたく無い、その想いだけで作った「3月の雪」という曲がある。

これからは少しそこに光を入れられるように表現出来たら良い。
皆の笑顔を思い出して、故郷を思い出して。
暗いけど、優しい歌。
そんな歌になれますように。

長々と書いたけど、想いはやはり
「忘れないで欲しい」
それに尽きます。

又今日から始まる。
これからも東北は負けない。
頑張っぺ東北!
頑張っぺ相馬!!

鳥久のメンチカツ食べたい。
船橋屋のお星さま食べたい。

相馬に帰りたいなぁ。
畜生。コロナめ。

それでも…あれから10年。
今日くらいは泣いても良いかな。

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