メジャーデビューした途端に応援を止めるようなファンのエゴを自分も持っていたということか

M-1グランプリ2021が終わった。

例年以上に興奮した大会だった。

というのも、今年はランジャタイが

遂に決勝に出た回だったからだ。



前回の記事で、お笑いの文脈について書いた。

そこでは「ランジャタイは文脈が要らない」と

言ってしまっているのだが、

今回の大会はその文脈を込みで

観てしまわざるを得なかった。



元々名前は知っていたコンビだったが、

昨年たまたま観た「バーベル」のネタ動画、

視聴者投票で最下位になって

「国民最低〜!」と叫んだ2020年のM-1敗者復活、

稀に出ているバラエティ番組での彼ら、

そして2021年始のマヂカルラブリーno寄席。

馬鹿馬鹿しくて何が面白いのかわからないのに

めちゃくちゃ笑ってしまうという経験を

初めてした。夢中になってしまった。

YouTubeのネタ動画は全部観たし、

ライブにも行った。

人生で一番惚れ込んでしまった芸人である。



動画を観てもらえればわかるのだが、

彼らはクレバーから程遠い芸風である。

言葉遊びとか伏線とか

M-1のために後半に盛り上がるネタを作ったとか

そんなことから全く無縁のお笑いである。

ただただ、自分たちが面白いと思った

"おふざけ"をずっと舞台上でやっている。

客からどう見られているかではなく、

自分たちの"面白い"を表現している。

どんなコンビか、どんな生い立ちか、

どんな経歴かを抜きにしたその剥き出しの笑いに

入れ込んでしまった。



元々私は『ダークナイト』のジョーカーの

全く理由の無い悪意だとか、

最初期の『チェンソーマン』のデンジの

空っぽな情動とかそういうものが好きだ。

(チェンソーマンはその空っぽの主人公が

どう成長するのかが肝だったから

私の好みどおりには物語が進まなかったのだが。)

理由は無ければ無い方がいい。

もちろん極めて論理的な物語も好きなのだが、

論理はいずれ綻ぶ。いずれ粗を見つけてしまう。

粗を見つけてしまうのが嫌だから

前提や知識よりも、直感の娯楽に痺れたいと

思ってしまう。

面倒くさい世界観を嘲笑うような

身勝手な暴力が見たい。



しかしながら、直感の娯楽も難しい。

狙ったナンセンスはナンセンスではない。

これみよがしに奇を衒うことは

ただ不快な異臭を放つだけである。

何を不快とし、何を快とするのかは

あくまで好みの問題だ。

私にとってランジャタイは"文脈関係なく"

直感で笑えた芸人だったのである。




しかし、そんなランジャタイが

芸人にとって人生が一変し得る

M-1グランプリの決勝でネタを全国に

披露するとなれば、事態は直感ではなく

「文脈」の管轄になる。

あの番組は、今年のキャッチコピーが

「人生、変えてくれ」だったことからも

わかるように、一種のドキュメンタリーである。

彼らがどんな人物なのか、

彼らにはどんなストーリがあるのか、

そういったことにスポットが当たる。

ただのネタ番組ではなく、

賞レースの形式をとった、

それぞれの芸人の「文脈」というガワを楽しむ

プログラムである。

(勿論、これはあくまでお笑い好きであることが

前提の見方であって、そうでない視聴者が

昨年のマヂカルラブリーを見て

所謂「漫才か漫才じゃないか」論争を起こしたのは

ごく自然なことだったのだと思う。)




ランジャタイのネタ動画は全て観た。 

なんならほぼ毎日観ていた。

一方で、生配信の類は一切観ていなかった。

敢えて文脈を知りたくなかったからだ。

「あぁボケの人は本当は良い奴なんだ」とか

「ツッコミの方がやばいやつなんだ」とか

本当は知りたくなかった。

彼らのことを飽きてしまいたくないのだ。

文脈のフィルターを通して

ネタにノイズを感じたくない。

わかっている。私は絶対に彼らという

"人"を好きなってしまうのだ。

文脈を愛してしまうのだ。

そうしたらもう彼らをフラットな目では見れない。

入れ込んではいるけど肩入れをしたくないんだ。

無理だよ…助けてよ……。



今年のM-1にしたって、当然応援はしていた。

決勝にも行ってほしかった。

ライブの掴みで他の芸人のモノマネを

10分以上やってから自分たちのネタをやるような、

落語を見たこともないのに

オリジナルの落語を作って

それを初見で笑わなかった芸人仲間に

9時間笑うまで同じ落語を見せるような、

そんなおふざけを貫いている彼らが一体

M-1という大舞台で何をしでかすのか、

そしてそれに審査員含む視聴者は

どんな反応をするのか、ということに

期待をしないではいられなかった。

結局、ネタよりも文脈というガワを

楽しんでしまったのである。




結果として、ランジャタイが

M-1で見せたパフォーマンスは最高だった。

呼ばれてるのにしばらく座ってるし

通路で歴代優勝者のポスターの前で

立ち止まるし

舞台上で滑るジンクス(背中ポン)を

相方に擦り付けるし

ネタ中にムーンウォークするし

リハと違うオチをやって終了のジングルが

正しく鳴らないし

結局最下位になるし、

あぁこれがやってほしかったんだと

思うランジャタイの姿そのものだった。




お気づきだろうが、私は普通にファンだ。

地下ライブの時代から応援しているような

古参ではないが、

それなりに大きめのファンだと思う。

M-1決勝で彼らを見れたことも

爪痕を十二分に残したことも

何か志らく師匠がベタ惚れしてることも

全然喜ばしいことだ。

きっと露出も増えるだろう。



でもこの胸のモヤモヤは、


文脈ではなく彼らのネタ自体を純粋に


楽しみたい私が抱えているのは、


これから彼らが消費されていってしまうことへの


ただ全くもって個人的な懸念だ。




あぁ、お願いだから



極力ゴールデンのバラエティには出ないでほしい。



とりわけドッキリには参加させないでほしい。



「奇抜」というラベルを彼らに貼って

カテゴライズしないでほしい。



人柄の深掘りなんて絶対にしないでほしい。


一定数から「面白くない」と言われ続けてほしい。



やりたいことだけやらせてあげてほしい。




できる範囲で、





構わないから...…。










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