文脈の話

お笑いが好きだ。

お笑いを真に楽しむために

お笑いを絶とうと思っている。

だがお笑いを絶っては

お笑いを楽しむことはできない。

BLEACH5巻の巻頭ポエムみたいだが

結構深い問題だと思っている。


お笑い番組は、大きく分けて

ネタ番組とバラエティ番組とがあるが、

いずれにしても最近は

芸人のネタだけを披露するのではなく

芸人とその他の芸人との絡みや

芸人の家族等のパーソナリティを深堀りした

番組が多い。というか、全てである。


最近は特に、ネタ作りや番組における振舞いを

芸人自身が考察する番組が増えた。

私にとってはそれらは確かに面白く

興味深いと思って視聴する。

しかし、それによって知らなくていい、

知らない方が良かったお笑いの知識が

身についてしまうのである。


私が一番好きなお笑い番組は

M-1グランプリ等の賞レースである。

芸人たちが己の芸の全てを出し尽くす

賞レースこそ一番面白いネタが詰まっており、

一番質の高い笑いがあると思っている。


だが賞レースに出てくるのは大半が

「お笑い好きなら知っている」芸人たちなのだ。

他のバラエティ番組で彼らのネタや

パーソナリティや、ネタ作りについて

知っている場合さえある。

もちろん、それで面白さを損ねるわけでは

ないのだが、賞レースで彼らのネタを見る際に

「そのネタをやるのか〜」とか

「一番手きついな〜」とか

「緊張しないでほしいな〜」とか、

そういう感情が純粋に「お笑いを見たい気持ち」

を阻害するのである。

それはそれで楽しいは楽しい。ただ、

「隙あらば審査員でもないのに芸人のネタを

評論する自分」に辟易することもある。

「これは"お笑いを楽しむ"姿勢ではないのでは」

「"茶の間でたまたま見た名前も知らない芸人の

知らないネタがすごく面白かった"というのが

真に"お笑いを楽しむ"ということなのでは」

そのような葛藤に苛まれる。

「お笑いを楽しむためにお笑いを絶つ」という

考えが頭をよぎる。


しかしながら、厄介なことに

「お笑い」において欠かせない要素は

「文脈」でもある。

これは別にネタ作りの妙技とかではない。

単純に、「それを面白いと感じる下地」の話だ。

「知識」や「前提」と言い換えてもいい。


例えば、2017年のキングオブコントでは

準優勝したにゃんこスターが話題になった。

私が言うまでもなく各所の評論家が

語り尽くしているところだが

(私自身が評論家になりたくもないのだが)、

彼らが注目されたのは

それまでのお笑いの「文脈」を壊したからである。

普通のネタは、その場面がどんな状況か、

どんな人(キャラ)か、というのを見せつつ、

それらをフリにしながら伏線を交えて

笑いを作り出していく。

しかし彼らは伏線やフリという

お笑いの概念を全部無視して

「縄跳びを用意して縄跳びを跳ばない」という

お笑いを披露したのである。

それが「お笑いの文脈をわかっている」

審査員たちに評価されたのだ。


2020年のM-1グランプリで優勝した

マヂカルラブリーにしても「文脈」が 

キーになってくる。

彼らは2017年のM-1グランプリでも

ファイナリストになったが、

そこで審査員の上沼恵美子氏にボロカスに

批判され、最下位に終わった。

しかし彼らはそれで芸風を変えることなく

2020年再び決勝に上がり、

土下座で舞台にせり上がってみせた。

そこからまた3年前と同じような

(もちろん以前より洗練された

ネタになっていることは前提である)

馬鹿馬鹿しいネタを披露して

見事優勝した。

これは、彼らが3年前に審査員に

酷評されて最下位に終わったことを自虐ネタに

昇華し、「あんなに怒られたのに

まだふざけたことやってる」という

「文脈」があったうえでのおかしさを

多分に含んだ面白さだった。


にゃんこスターもマヂカルラブリーも、

話題にあがった当時は批判の声も多かった。

「何が面白いのかわからない」

「あれは漫才ではない」

お笑いは好き嫌いがあるジャンルだから

敢えて好まないというのは正当な選択ではあるが

「笑いを楽しめない」のは

笑いのセオリーや芸人の個性・ストーリー等

知識や前提を知らないこと、すなわち

「文脈」の欠如が理由になることもある。


お笑いに必要な知識や前提というと大仰だが、

例えばパロディはパロディ元を知らないと

十二分にそれを楽しむことはできないし、

酔っ払いに絡まれる動画がバズっても

絡まれてる本人はそれどころではない。

パロディ元の知識があって、もしくは

安全圏にいながらそれを傍から笑えるだけの

状況を前提として、初めて楽しめるのだ。

知識や前提という「文脈」は、

それを楽しむために共有されるべき

条件なのである。


だがその「文脈」は、「直感」にとっては

ノイズになる。

めちゃくちゃ仲が悪いと知っているコンビが

馬鹿馬鹿しい漫才をやっていても

「楽しそうに見えても楽しくはないんだろうな」

という、およそ笑いに繋がらない気持ちが

必ず胸に浮かぶ。

めちゃくちゃ失礼で下品な

振る舞いをしていても、応援している芸人なら

「彼らはでも普段はこういう人たちだから」と

贔屓目な気持ちで擁護してしまう。

本来を客観視できなくなってしまうのである。


「文脈」を共有していること、あるいは

していないことによる弊害は、

SNSの発達した現代において

根深い問題となりうる。

文脈を理解していないから起こる批判、

文脈を理解しているからなされる擁護、

これらの同時発生によって

あらゆる価値観は収縮していき、

「分断」が起こる。

自分たちと同じ価値観を持つものと

そうでないものを明確に区別し、排斥する。

価値観の多様性を謳いながら

価値観が交わることのない閉塞的な社会になる。


重要なのは、「文脈」の存在を認識したうえで

上手く切り替えを行うことである。

バラエティ番組で後輩芸人が先輩芸人に

失礼な態度をとっているのは、

彼らに前提として何でも言い合える

信頼関係があること、

そもそもそれが楽しい映像を流している

バラエティ番組であること、

そのような「文脈」があるから批判するよりも

楽しむべきものだと判断する。

市長が招聘した五輪アスリートの

メダルを噛んでいるのは、

彼がもう耄碌していて判断力に欠け、

メダルを噛むことがすげぇ面白いという

世界線に生きているという「文脈」が

"あったとしても"批判されるべきことである。


物事を楽しむための「文脈」は、

確かに必要だが、それが全てではない。

直感も大事だが、それだけでは

重要なことを見落とすかもしれない。

お笑いだけに限らず、

あらゆる事柄に共通する姿勢のように思う。


「偏見」というのは、

「文脈」を共有できていないことだ。

共有できていなくたっていい。

直感的な偏見は必要だ。そうだろ。

偏見によって自分がそれをまず

どう感じるのかを判断することができる。

大切なのは、自分の偏見を信じすぎることなく

そこにどんな「文脈」があるのかを想像し、

あるいはその「文脈」について実際に探ることで

自分の考えをより深化していくことだ。

どうもありがとう。


まぁ一番言いたかったのは

一周回って文脈とか何も考えずに見れる

ランジャタイが最近一番好きっていう話。

終わりで〜す。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?