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東日本大震災における自衛隊 航空自衛隊松島基地編

明日、3月11日で東日本大震災から13年が経過します。
被災した全ての方に対してまず、哀悼の誠を捧げます。

さて、東日本大震災では自衛隊、警察、消防をはじめとして米軍など海外組織も支援活動に加わりました。

まず、航空自衛隊の松島基地について知ってみて下さい。

航空自衛隊松島基地

ブルーインパルスが所在する基地でもある松島基地。
F-2戦闘機のパイロットの育成も行っています。
東日本大震災発災前、松島基地では地震、津波が基地を襲ったときの訓練を繰り返し行っていたそうです。
また、ブルーインパルスは実は当時、9年ごとに事故を起こす、というものがありました。
これを打ち切るために杉山良行第34代航空幕僚長の弟にあたる、当時の杉山政樹基地司令は数々の努力をしておられました、(詳しくは小峰隆夫氏著蘇る翼F-2Bをお読み下さい。下のリンクより)

https://www.amazon.co.jp/%E8%98%87%E3%82%8B%E7%BF%BC-F-2B-%E5%B0%8F%E5%B3%AF-%E9%9A%86%E7%94%9F/dp/4890633626

そして、その訓練の中で地震があればなにか一つのことだけをして避難する、というものが決められました。東日本大震災でこの訓練が活かされました。そして、隊員の約1100人全員が無事だったそうです。
そして、津波が引いたあと、基地の発電機やヘリ、航空機、滑走路、すべてが使い物にならなくなりました。
夜が開けると人命救助と滑走路の復旧の2つに分け、行動しました。。滑走路を復旧させることにより救難機の着陸基地にすることができるのです。
また、F-2戦闘機を駐機場に並べる、ということもしました。こうすることにより自分たちは生きているんだ!と外部に示すことができます。
そして、全国の空自基地から応援も到着し始めました。陸自の車両も来てくれました。その部隊の中には懐かしい顔もあったそうです。
かれらの合言葉は「陸上自衛隊はもっと過酷な状況でやっているんだ。頑張ろう」というもの。
他部隊の隊員に部屋に入ってもらい自分たちは廊下で寝る。最低気温が-4℃になることもあったが、意識が遠のけばラッキーだと笑いあったそうです。
2週間以上も水が出ませんでしたがそれまでは手も洗わず、お湯がないので缶メシを硬いまま食べ、応援部隊が陣中見舞いの食料を持ってきてくれたりもしましたがそれも近くの小学校で配り、入浴ができるようになってからは先に住民に入ってもらったそうです。
滑走路の復旧作業は急ピッチで進み、震災4日後には飛行機が降りられるようにまでなりました。

松島基地には松島救難隊も所在しています。なにかがあれば真っ先に飛んで助けに行く、あらゆる救難環境に対応できるのは自分たちだけだと誇りを持つ方々です。しかし、機体が無ければ救助には行けません。どれだけ悔しい思いをしたのか。それは計り知れません。

また、震災の日、休暇中だった隊員は、海に2人の子供と遊びに行っていました。ですが、発災後即座に車を飛ばし、基地に急行しましたが、ゲートが閉まっているため基地の門前で津波に襲われてしまいました。
2人の子供も一緒に。
自衛官としての使命感で駆けつけた隊員を失ってしまったこと、なにものにも変えることができません。

また、隊員の家族36名がお亡くなりになり、139名が安否確認できていないそうです。
配偶者を亡くし、子供を亡くした隊員もいらっしゃいます。それでも国民のため、地域のために働く自衛隊員たちはなにものにも変えられないでしょう。

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