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【本の紹介】エマニュエル・トッドの思考地図

 その特定の個人が得る「ひらめき・気づき」は、AIには(少なくとも現時点では、簡単には)置き換えられない人間特有のものだろうから、今後も突出した個人というのは、世界に存在するのだろうな。それが本書を読み終えた最初の感想だった。著者のような膨大な知識をその脳内に入れている(歴史)学者といつのは、今後も出てくるのだろうか? また、社会における学者の"価値"のようなものは、(誰もが知りたい情報にアクセスする事が今よりもさらに容易になる)将来に、どうなるのだろうかという思いが頭をよぎった。(※トッド氏本人が本書内で自分で言っているように、幼い事から読む事、学ぶ事に並々ならぬ情熱を持ってきた氏本人にとってみれば、自分が社会に及ぼす影響など、究極の所、どうでもいいのかもしれない。)

 現代知性の一人と呼ばれるエマニュエル・トッド氏が、自身のモノの見方、思考方法を紹介するのが本書だ。

以下、学び・気づきを得た部分。

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個人がもたらすものは、問いなのです。以前の研究者が出した問いに答える、そしてそれに反論したり、あるいはそれを受けて、別の問いを提出する。こうしてみると、研究というのは、問いと答えの連鎖なのです。研究という観点から見たとき、思考というのは、こうした歴史的なつながりと蓄積の上に成り立っているわけです。
私は自分の頭から真実が生まれてくるなどとは思っていません。
これは哲学的な思考態度とは異なるものです。私は本能的に、そして育った家族の伝統からも、フランスの哲学には最初から疑問を持ち否定的な立場でした。
私が研究者人生で何をしてきたか。混沌とした歴史の中に法則を見いだすということでした。私が最初に見つけた法則は、家族構造の種類と政治思想の関係性です。また、時間の流れの中で、家族システムが複雑化していく法則は、私の研究の柱となりました。
私は専門分野に限らず、幅広い文献を読んできました。つまり私は考え込まないのです。考えるのではなく学ぶのです。
最初に学ぶ。そして、読む。歴史学、人類学などの文献をひたすら読み、そして何かを学んだ時、知らないことを知ったときの感動こそが思考するという事でもあります。
様々な事柄を関連付けるとともに、通常の状況から外れたものに関心を持つこと。それが思考の出発点だと言えるのではないでしょうか。
想像というのは、本当にゼロから始まるものではなく、既にある要素をこれまでにない形で関連付けることで生まれるもの。(※(Light of Japan 記載)既知+ 別の人の既知と理解した)
私にとって図や表を書いてみたりするのは、それ自体楽しいこと。メモを取ったり、図を描いたりするというのは、情報システムによる均質化の脅威から逃れる事を意味する。
ある程度のキャリアを積んだ研究者は、エネルギーこそ若者ほどではないが、あることを見つけ出すということに関しては、本能のようなものを身に付けている。大きな資料の山も、自分の専門分野であれば、道標のついた既に良く知った場所になっている。若い頃に比べ、エネルギーはなくなってくるが、そのかわり効率が良くなってきているということ。どんな職業にも当てはまる。
私にとって思考することの本質とは、とある現象と現象の間にある空間の位置や関係性を見いだすということ、つまり発見をするということです。
どんな領域であっても、科学の出発点となるのは、非常に膨大かつ複雑なデータです。それらのデータは大抵入手困難ですし、データの収集や検討と言うのは、とにかく大変な作業なのです。ところがそんな作業していると、ある日突然、体系だったアイデアを思いつくのです。
アイディア、仮説、直感の違いをうまく定義するのは難しいので、私はそれらをまとめて、ブレイクと呼んでいます。何かが思い浮かぶ時、それはテニスでいうブレイクの瞬間なのです。興味深いことを見つけた、何かがある、という感覚です。あるいは収集したデータ等の中に特異な点を見つけて、その意味を見いだすことができたりしたときのことを指します。
アイデアを得ること、あるいは変量や変数の関係性や時間空間における一致などに気づくことの裏では、何らかの無意識のメカニズムが働いているのだということです。ただ膨大な情報をインプットするだけでは十分では無いのです。そうした情報を完全に咀嚼し、はっきりと意識されなくなるところまで、つまり無意識のレベルにまで深く沈殿させる必要があるわけです。それには時間がかかります。やがて、その無意識において、別々の情報同士が自然と攪拌され、ある時新たなアイディアとして突然飛び出してくるのです。
直感やアイディアが浮かばない理由は、自分の中に無意識でランダムな考え方がないということ。つまり、
①データを把握する能力が欠けている、あるいはデータの集積が不十分
②先に挙げた乳児死亡率のように、それぞれのデータの意味やその背景にあるものを理解する能力が不十分
③インプットしたデータが無意識のレベルで混ざり合うほどに深く定着していない
④あるデータと別のデータ、ある現象と別の現象と結びつけて考えようとする試行錯誤をしていない。(あるデータや情報が、無意識の中に定着するためにはそれが自分にとって"重い"ものであるかどうかが関係する)

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 自分なりの効率の良いインプット/アウトプットの方法を確立し、それをアップデートしていける者がより多くを学び、成長していき、より多くの価値を貢献できるような世の中になるのかなと本書を読んだ後に感じた。一方、自分を変えられない人々は、変化に取り残される。

 テクノロジーは(現在よりもさらに)格差を広げていくのだろう。だが、その頃には、労働の持つ意味合いも変わっているかもしれないし、ベーシックインカムが始まれば、寝て食う(だけであれば)には困らなくなるから、人々の意識も変わっていくかもしれない。人々は、労働にかける時間を減らしていき、各々が好きな活動を行う時間が増えていくのだろうか。

 そんな世界は、どんな世界だろうか。より多くを知りたいという、好奇心をより多く持つ人にとっては、理想の世界となる。その道の権威の書いた著作へのアクセスは、今よりも更に容易になり、プロフェッショナルへの道のりも今よりもクリアになっている。情熱とそれを継続する制度設計を自ら作れる者にとっては、一流になる道は、今よりも拓けやすくなるだろう。

より「主観・思い込み・意志」が価値を持つ社会になる。誰に何と言われようと、これを俺はやりたいんだ!と思うことこそが、今我々が思うよりも、ずっと価値を持つようになる。その理念・志に共感した仲間も世界中から集めやすくなる。苦手な事は、どんどん他者に頼めばいいし、人間が見つからなければ、テクノロジーに頼める事も今よりはずっと増えているはずだ。

"知っている"ことだけでは、付加価値をつけにくくなる。なぜなら、あらゆる情報はよりつながりを増し、相互に関連づけられるようになっているからだ。何と何を繋ぎ合わせれば価値が生まれ(上がり)、何をテクノロジーに任せれば、そのアウトプットを最大化できるかを理解している者が多くを得る世の中になるのだろう。

 また、個人的には、著者のような歴史学者ですらも、現在の地位を築くまでの道のりは決して平たんではなく、博士号取得にあたり、尊敬していた先輩歴史学者にこれでもかというくらい自分の研究を批判されたり、他の研究者から散々非難をされてきた(そして、その度に、自分に救いの道を示してくれた人との出会いがあった)という記述は、とても興味深いものがあった。研究者は、その苦労と投じた時間に比べて、(世間一般や同じ専門以外の人達に)その業績を認めてもらうのが難しい、陽の光を浴びづらい職種であると思う。その中でも、自分の信じる道を突き進み、一定の成果を出した研究者は尊敬に値すると考えている。強いメンタルがなければ、果たせない職業だ。(自身が鬱状態に近い時が、良い研究が出来ている事が多いというトッド氏の記述には、自分には学者はとても務まらないなと思うに十分だった)


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