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【本紹介】目的への抵抗(國分功一郎)

 実用的(自分の人生に生かせる可能性があるという意)とは言い難い科目は、昔から苦手だった。その最たるものが哲学。昔からそれ知って私の人生はどう変わるの?とか、現実を動かせない机上の空論に時間を費やす意味がない、とまで言わないが、その他に自分の人生では優先すべきことがある、と考えていた。今でもそう思う自分もいる。

 AIが進化し、答えが導ける事については合理化が進み、ロジックで導ける事は人間ならではの希少なものではなくなってくる(と言われている)。すると、己の生き方、ポリシー、生き方の軸、背骨、好き嫌い、つまり主観を育てるのが大切なことのように思える。

 まだ、自分の生き方が定まっていない若い人へお薦めしたいのが、國分功一郎さんの「目的への抵抗」だ。前作「暇と退屈の倫理学」でこの手の分野で異例のスマッシュヒットを飛ばしたが、その明晰な語り口は本書でも健在だ。アンナ・ハーレントの著作の解釈に難儀している人は、一度読んでみるといいかも。いくつか、琴線に響いた言葉を紹介。

「あなたのすることのほとんどは無意味であるが、それでもしなくてはならない。そうしたことをするのは、世界を変えるためではなく、世界によって自分が変えられないようにするためである。」マハトマ・ガンジー

「目的への抵抗」より

味わい深い。

私自身は、自分の子供に何かを問われた時に、少しでも彼らの心に響く一言を発せられるどうか。説得力を持った言葉で、その時の彼らの琴線に響くことばを送れるかどうか。その1点を念頭に置き、最近は新しい知識を取り込んでいる。かみ砕いて、自分のことばで相手に伝えなくては、相手に響かない。

文章を書く上でも、読者に「あいつらしいな」「あいつの文章を読みたくなるな。」そう思われないと、読んでもらえなくなる気がしている。AIが書いた文章の方が面白くなる、そんなことを最近思わないでもない。

若人へのメッセージとしては、下記が秀逸だ。

自分の人生においてものすごく遠くにあること、将来についてものすごく漠然としたことを、なんとなくでもいいので考えておいたらいい。曖昧でよいのです。「世の中をよくしたい」「なんでもいいから大発見をしたい」とか、「人間とは何かを考えたい」とか。

目的への抵抗 高校生に「今何をしておいたらいいですか」と問われた國分氏の回答抜粋

つまり、ものすごく近くにある課題とものすごく遠くにある関心事の両方を大事にする。なぜこの話をするのかと言うと、その間にある中間的な領域の事はなかなか思い通りにならないんですね。どんな大学に行きたいとか、どんな会社に行きたいとか、そういった事はなかなか思い通りにはなりません。ですから、そこに目標をおいてしまうと、とても苦しいことになる。でも、来週の定期試験の勉強できますよね。また、何でもいいんだけど、何か世の中を良くすることをしたいなとか、ぼんやり考えることもできます。

「目的への抵抗」より(傍点は私)

短期的な課題を一つ一つこなしていくと、課題で求められていたこと以上の何かが身に付きます。人の話の聞き方だったり、自分の特性についての理解だったり、休みの取り方だったり、友達との情報共有の仕方だったり、失敗の受け止め方だったり、仕事の順番の決め方だったり、短期的な課題はたくさんのことを教えてくれる。その上で、遠くにある自分にとっての大切なことをぼんやりとでも思い描けていたら、人生におけるブレを、不必要に大きくしないで済むように思います。先程言った、中間的な領域での思い通りにならないことによって、必要以上に振り回されなくなります。

「目的への抵抗」より(傍点は私)

僕自身もそうだったように思うんです。僕にとってのものすごく遠くにある大切なものと言うのは、物事の本質的に考えたいみたいなことだったと思います。こんなにぼんやりしているわけですから、それがどういう形で具体化できるかよくわからなかった。結局哲学と言う分野に落ち着いたわけですけれども、哲学をやるなんていう明確なイメージは若い頃にあったわけじゃない。哲学と領域は広大ですけれども、僕にとってはそれすら中間的な領域だったんですね。様々な事情で、それが決まっていった。で、それが決まっていくまでの間、一応、目の前の短期的な課題の1つ1つには一生懸命取り組んでいった。その結果として哲学の研究者になったという次第です。

「目的への抵抗」より

 40歳を超えた今の自分に、この言葉は結構しっくりくる。

 自分が大学生の時、自分がどこを目的に日々生きているのか全くわからず、途方に暮れる感覚を覚えるときがあった。その感覚は、今も忘れていない。当時、目的・目標がない1日を過ごし、空虚な日々を送ることが自分は耐えられなかった。形を変えたにせよ、若者たちはそんな感覚を覚えている人もいるはずだ。①目の前、②遠くの先。この二つの視点。

 あとは、まずやってみること。とにかくフットワーク軽く、小さく動ける習慣は持っておいて損はない。試行回数が少ないのに「自分の好きなものが分からない」なんて言っていては、お話にならない。

 自分にしっくりくるかどうか。直感的なモノを信じて進んでもいいし、やり始めてしばらくしてから考えてもいい。それが若者の特権なのだから。


 人生を分けるものは、大きな差ではなく、小さな差から始まっていることにも、やがて気づいていくから。


 目的合理的な活動が社会から絶対になくならない以上、そのような根幹には意味意義があります。しかし、重要なのは、人間の活動には、目的に奉仕する以上の要素があり、活動が目的によって駆動されるとしても、その目的を超えていることを経験できるところに人間の自由があると言うことです。それは、政治においても、食事においても変わりません。

明確な目的がないのに、自分が執着していること。そこに自分を深く知る、深く掘り下げるヒントが眠っているかもしれない。

 目的のために手段や犠牲を正当化すると言う論理から離れることができる限りで、人間は自由である。人間の自由は、必要を超え、出たり、目的からはみ出たりすることを求める。その意味で、人間の中は、広い意味での贅沢と不可分と言っても良いかもしれません。そこに人間が人間らしく、生きる喜びと楽しみがあるのだと思います

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