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眞之介ってどんな人? ~自己紹介note①~

こんにちは、こんばんは。

卒業論文の重圧から解き放たれたばかりの、

森下眞之介です。


このnoteを閲覧していただき、誠にありがとうございます🙇‍♂️🙇‍♂️🙇‍♂️

今回は、「初めまして」の人が増えると予想される来年度に向けて、

僕の自己紹介を丁寧に行っていきたいと思います。


最後まで読んでいただいた時には、

少しでも僕のことを「身近」に感じてもらえていたら、幸いです。

それでは、さっそく内容に入っていきます。


①基本情報

・身長 164.5cm

・体重 67kg (2020/01/25時点)

(SWBC JAPAN#18の山本さんと並ぶのこの小ささ🤢)



生年月日 1998年5月21日  
 次の誕生日で23歳なります!!!


・出身地 愛知県あま市
 名古屋駅までJRで10数分の場所っす。

・出身高校

 上田西高校 進学コース 
 この写真の中に僕います。笑

・出身大学 長野大学 社会福祉学部 教育福祉コース  

信州大学=国立
長野大学=公立(上田市)
長野県立大学=公立(長野県)
松本大学=私立

これの長野大学=公立(上田市)です。

・卒業論文タイトル「大学生が安定型アタッチメント・スタイルを獲得する方策の提案」 

性格や人格に関する研究をしました。

・好きな食べ物 寿司(美味しいし、非常に栄養バランスが良い)

・趣味 野球なんですけど、趣味と呼べなくなるので趣味が無くなります…

・最近ハマっているアニメ 「新世紀ヱヴァンゲリヲン」「Re:ゼロから始める異世界生活」


この他にも、「これ知りたいんすけど!」などあれば、コメントしてもらえると追記します!


②野球経歴

少年野球編(七宝テクニクス=地元のスポーツ少年団)

あま市長杯優勝、中日旗争奪ミニ甲子園大会準優勝、西尾張地区大会優勝など、比較的強いチームにでした。

僕は、なんとかスタメンで試合に出ていました。

なんとかなので、試合ごとにポジションが入れ替わりながらの出場でした。

この時のチームメイトの一人が


中京大学→日本製鉄東海REXで来年から社会人野球の初祖晋太郎で、

初祖の活躍を聞くたびに、負けてられないと心が熱くなります🔥


また、隣の小学校には亜細亜大学→ホンダ鈴鹿の栗原健もいて

今思うと、地元のレベルが高かったのだと感じてます。


少年野球の一番の思い出は、先ほど挙げた

中日旗争奪ミニ甲子園大会の決勝戦、1週間前に骨折してしまった事です。

それも、6年生の僕が、1年生の子と衝突して、僕だけが骨を折るって話。

いやぁ、情けない話っすね…笑


6年生の頃から非常に小さく、140㎝程度しかなく小柄な体形だったので、

中学校では野球をやめて、吹奏楽か柔道をやろうと考えていました。

吹奏楽→ナゴヤドームでトランペットを吹いていたから(写真は小4のシンノスケ)


柔道→母、姉ともに黒帯有段者


中学校編(西名古屋ベースボールクラブ)

(左側で賞状を持ってるのが14歳の僕です☺️)


野球をやるか迷っていた時に、同じのエースだった子に誘われて

西名古屋の練習体験に参加。

「ボール投げるだけで、ボール打つだけでこんなに楽しいんだ!!」

と思い、

体験の後、加入を決断。両親にお願いをしクラブチームでの野球を選択しました。

この選択が僕の運命を大きく変えてくれたと思っています。


なんせ、めちゃんこ厳しい練習が始まったからです。

「!?!?!?」

「練習体験と違うぞ!?!?!?!?」

と感じた時には、辞めるなんて言い出せない状況。

「男がやると決めたら、やる」

と、覚悟を決めて必死に食らいついていきました。

(時には逃げ出したくなる時もありました。いや、頻繁にですかね…)


もちろん野球の技術も学んだが、

それ以上に人間としての有様を学んだと感じています。


厳しく、愛情をもった指導に今は非常に感謝しています。


このクラブチームでいった長野遠征で、

またしても、運命を大きく変える出来事、

長野県の上田西高校への進学が濃厚になっていきます。


高校編(上田西高校 硬式野球部)

(引退試合の写真)

長野遠征、長野の祖父祖母、クラブチームのコーチの繋がり、中学校の担任・教頭などなど、多くの大人のサポートがあり、

上田西高校への進学が決まり、野球を毎日やる日々が始まりました。


結論、挫折する高校野球となりました。

1年時には、Aチームでの出場は0試合。もちろん帯同もありませんでした。

そのような状況で、1年秋の県大会では偵察隊として裏方の仕事を任され始めます。

冬を超え、同級生が主軸となっていく姿に焦り感じながら、

その時できることを、取り組みました。


やれどやれど、成長は見えず。


しかし、1年秋にやった裏方仕事、偵察は

2年春からは無く、選手として練習に専念することができた。

その夏、チームとして二度目の甲子園出場を決めた。

もちろん、僕はアルプス席で応援してました。

心が折れかかっていて、高校2年生の僕は、

応援なんてする気も起きず、口パクでやり過ごしていました。

(心がすさんでいる…)


甲子園から帰ってきて、新チームが発足。

背番号もらうぞ!!と意気込んでいた僕は、きれいに足元を掬われます。

「来週の試合からAチームに来てくれ」

「スコアラーとして」


これは、ほぼ選手としてのクビ宣告です。

シンノスケは選手としてではなくスコアラーをやった方が充実した高校野球になるぜ

って意味でした。
実際に選手では経験できない学びを
非常にたくさんできました。


でも、

その時の僕としては

野球下手宣告をされたことにショックで頭は真っ白。

より、心がすさんでいき

いつもネガティブな眞之介が誕生しました。


でも、西名古屋ベースボールクラブで学んだ

「やることはやる」

の教えのもと、スコアラーの仕事を徹底的やりこみます

2年生の12月からは練習でも裏方に回り、

チームの甲子園のために全力を尽くしました。


春季大会では県3位と、あと2勝で優勝が見えるところでした。

必死に裏方をやって、気づいたときには、

チームの中心メンバーとして、キャプテン・副キャプテン共にチームを引っ張っていく存在になっていました。


長野県の夕方テレビ番組「男子マネージャーが支える夏」として、

取り上げてもらったのが懐かしい思い出です。


結果、甲子園には出場できずに高校野球を終えました。


裏方の楽しさを重要性を感じた高校野球となり、

この経験をきっかけに高校教員を目指すようになります。


ただ、
選手としての自信は全く無くなりました。


大学受験は野球ではなく、教員になれる大学を目指して進路を選んでいきました。

信州大学教育学部 不合格

岐阜聖徳大学教育学部 不合格

中京大学経済学部 不合格

と公募推薦で全部落ちるという前代未聞の大事件発生。

この時点で12月。

模試すら受けた事ない人間がどこまでやれるのか、ハラハラでした。

何とか、一般試験で複数大学に合格することができたので、

どこにするか悩みました。

近畿大学総合社会学部(私立 大阪)

名城大学人間学部(私立 愛知)

長野大学社会福祉学部(公立 長野)


「私立なら野球に関われるほど余裕はない。バイト漬けだぞ」

と親の言葉を受け止め、

野球から離れたくは無かったので、
長野大学への進学を選択します。


大学編(長野大学 硬式野球部)

と、ここまで書いたのですが、

大学編はこれ以上に長くなりそうなので、一旦ここで

今回のnoteは終わりたいと思います。


「次回予告」

高校で選手としての心がボロボロになったシンノスケは、

どのようにして復活、そして成長していったのか。

どんな展開があり、今のシンノスケになっていくのかを書いていきます!



次回もnoteも読んでくれるとうれしいっす!!!!




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