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阪神の「アレ」はなぜ成就したのか(1): フォーカシングと言霊の呪力


"A.R.E. "の呪力

2023年に15年振りに復帰した阪神タイガースの岡田彰布監督は、就任早々、その年のスローガンを"A.R.E."にすると発表した。結果的に、結果、18年ぶりのリーグ優勝と38年ぶりの日本一となった。

阪神電車・大阪梅田駅での日本一の垂れ幕を撮る人、にあやかり撮影(2023年11月6日)

以前、オリックスの監督時代も、選手たちが「優勝」というものを意識しすぎないように、あえて指示代名詞の「アレ」という表現を用いた。選手たちだけでなく、マスコミも「今季のアレのために…」「アレの可能性は…」などと用いるようになり、オリックスは初優勝。『ハリー・ポッター』に出てくる忌み名の逆、言葉にしないことで意識させるという岡田監督の手腕は話題になり、2023年の新語・流行語大賞を受賞するに至った。2024年も阪神のスローガンはA.R.E.を継続するようだ。

つい最近も、大阪国際女子マラソンで前田穂南選手が2時間18分59秒をマークし、19年ぶりに日本記録を更新するに至った。家族が大の阪神ファンである前田選手も、2023年は岡田監督の「アレ」にあやかり、「今年は"アレ"を狙う」を連発して練習や試合に臨んだという。

一般的には、「これ、それ、あれ」のような指示代名詞を多用することは、話し手に対してあまり洗練されていない印象を持たせやすいだろう。あるいは非常に文脈依存的で、内向きで、今のご時世にそぐわないようにも思える(昭和の親父が「母さん、あれ」と言って妻が新聞を用意するような)。隠語にもなりうる「あれ」という表現が、その表現を使う人々に、それとなく「それ」を意識させ、でもそれを明示的にせずプレッシャーにかけない仕組みがどうもあるいようだ。

このような「匂わせ」とか「仄めかし」にも思える言葉遣いは、なぜ効果があるだろう。直接「優勝」と呼ばずに「アレ」と読んだ方が、それが成就するという岡田監督の言霊の呪力のような才は、どのような仕掛けになっているのか。

そう言えば僕自身は、割と「それ」とか「これ」とか、指示代名詞を頻繁に、しかも戦略底に使っている。フォーカシングのセッション中の話だ。

指示代名詞の機能:「それ」で実感をシンボライズする


アメリカの哲学者で心理療法家のユージン・ジェンドリン(1926-2017)が開発した心理療法・セルフヘルプの技法である「フォーカシング」では、自分の悩みや抱えている問題、身の回りの状況についての漠然とした身体感覚、フェルトセンス(felt sense)を感じながら、自分にとっての意味を探究する。

フェルトセンスを感じ、その感覚と繋がったり吟味したりするプロセスの中で、まずはその感覚、お腹や胸、のどのあたりに感じられる、モヤモヤや違和感みたいなものに触れるとき、当人はその感覚をあえて「これ」とか「それ」とか、あるいは「この感じ」というような表現を用いることがある。

一般的にはよく、自分の身体に感じられるこう言った感覚を何からの形で解釈をして、無自覚のうちに「怒り」とか「悲しみ」のように感情のパターンに当てはめて理解することがよくある。フォーカシングではその手前の、漠然とした感覚それ自体に焦点をあてる。このような「これ」「この感じ」のような、それ自体では意味を意味内容を含まない、指示代名詞のような表現で捉えようとすることを、ジェンドリンは自分の体験過程理論において「直接参照(direct reference)」と呼んでいる。

なお、ジェンドリンの直接参照の意義については、ジェンドリン哲学の研究者田中秀男氏の論文「“この感じ"という直接参照ーフォーカシングにおける短い沈黙をめぐって一」(2018, 人間性心理学研究)に詳しい。

フォーカシングのプロセスでは、フェルトセンスを言い表すのにピッタリだと感じられるような"的確"な言葉(ハンドル表現)を見つける内的作業を行うが、それは言葉で感覚を解釈するというよりむしろ、感覚に言葉を”選ばせる”というほうが適切である。そのため、フェルトセンスを言い表すのに"不的確"な表現を用いようとする語、それがしっくりこなかったり、居心地が悪く感じられたり、その感覚自体が弱まったりする。感覚自体が、不的確な言葉をリジェクトし、その的確な言葉を選び取ろうとするのである。

例えば、セッション中にクライエントが「怒り」だと思っていたものが、よくよくフェルトセンスに触れてみると、それは怒りというよりはむしろ「裏切られた感じ」や「失望」という表現がぴったりな場合などがまさにこれである。微妙なニュアンスの違いだと思われがちだが、このような微細で精密な感覚の違いが、問題や悩みについての新しい理解をもたらす糸口になる。

田中はこのようなフェルトセンスの意味を探究する過程で、まずは「ただフェルトセンスを指し示すため、指示代名詞など意味を持たない言葉を使って応答する方がよい」(田中, 2018)と指摘する。まずは「これ」や「それ」などの指示代名詞を使うことで、解釈以前の感覚を、直接的に参照することができる。さらにそこから、感覚を頼りに「不的確」な言葉をリジェクトし、「的確」な言葉を選び取ることができるのである。逆説的に聞こえるかもしれないが、いったん言葉と感覚を機能的に区別して、「これ(that)」というような意味内容の含まない語句で把握するからこそ、そこを起点にさらに意味の探究をすることにつながるのである。

これは俗に言われる「無心になること」や「解釈の放棄」とは意味合いが異なる。感覚を的確に理解するために、まずは感覚にまとわりついた素朴な解釈を拭い去り、言葉越しではなく直接的に感覚を感じてみるのが、フォーカシングの出発点になるのだ。

「アレ」の背景にある暗在

岡田監督が「アレ」という表現を用いたとき、確かに明示的には「優勝」と明言しているわけではないが、直接的にそれを指し示して目標を共有している。一方で、たしかにその方向を指し示しつつも、「優勝」の二文字がもたらす不必要なプレッシャーを周囲に、あるいはひょっとすると監督自身もに与えないということに成功している。

不必要なものを呼び込まず、優勝に必要な目標共有や日々の取り組みを呼び込むために、あるいはマスコミやファンも過剰な期待というよりも何気ない期待を眼差し続けるようなムードで見守れるように、「A.R.E.」という表現は機能したのではないか、そのような見方も可能である。

「A.R.E」という表現には、明示的ではなく暗黙のうちに(implicitly)、そのムードや意味を共有したり、より精密に感じたりする機能がある。岡田監督のこの手腕はそう言った意味で、体験過程的な言葉の機能、ジェンドリンのいう暗在性(implicit)のはたらきによるある種の「呪力」によってもたらされた采配であった、とも言えなくもないだろう。

ただ、「A.R.E」という表現がただ単に”仄めかす”ことを目的にしているにしては、この呪術はあまりに効きすぎているようにも思える(阪神、だいぶ強かった)。おそらくは「”優勝”の二文字を仄めかしても目標を共有できた」というよりむしろ、「あえてその二文字を伏せ、"優勝"の観念が背景に退いたからからこそ、強力な何かが生じた」と考えてみることもできるだろう。

あえて「アレ」と伏せ字にすることで、なぜ「アレ」は成就するのか。このことについてさらに考えるには、「背景的なもの(back ground)」についてのジェンドリンの哲学の記述が役にたつ。言葉の力は、背景に立ち返り、暗在的に機能するときに、思わぬ冴え方をするのである。

(続く)

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