「ジェンドリン哲学」登山ガイド (3): ”ing”と「こと」をめぐって
ジェンドリン哲学への”安全登山”を目指す本企画、今回はジェンドリンが用いる特徴的な言い回し、"-ing"を取り上げます。誰もが知っている、英語で進行形を作る際に使うこの"-ing"という接尾辞に、ジェンドリンは自身の哲学にとっての重要な役割を与えています。
そのニュアンスを理解する補助線として、今回は現代美術家で、芸術・哲学・科学を統合する実践を進めてきた荒川修作とマドリン・ギンズ(荒川+ギンズ)、そして精神現象学者・日本の臨床哲学の第一人者である木村敏という「知の巨人」たちにに触れます。ある山のかたちを知るには、隣の山から眺めるのがいい。”隣”と表現しましたが、彼らの思想にはジェンドリンとの近しさがあります。実践と哲学を架橋する共通点を持った、彼ら知の巨人たちの思想の特徴が、この"-ing"に現れています。
ジェンドリン、荒川+ギンズ、木村らを論じるのはそれぞれの研究にとっても重要かつ継続的に取り組むべき仕事です。その予備的な概念整理をこのnoteの記事で始てみます。
1. ジェンドリンの"-ing"の由来
"-ing"は、動詞の進行形や動名詞、現在分詞をつくる英語の接尾辞であり、ジェンドリンの哲学を理解する上で重要な手がかりになるものである。その中核的な概念である「体験過程(experiencing)」に代表されるように、ジェンドリンのつくる用語は"-ing"のもつ、生き生きとした、進行的な、作用的な、プロセス的な、などと形容できるニュアンスを含んでいる。
この体験のプロセスを強調する「体験過程(experiencing)」という用語になぜ"-ing"が用いられるようになったのか、その由来についてはすでにいくつかの先行研究で示されている。三村(2015)や田中(2018)にて取り上げられているように、ジェンドリンが修士論文で扱ったドイツの哲学者ヴィルヘルム・ディルタイ(Wilhelm Dilthey)に関係する。
19世紀に精神科学の基礎づけを行う中で、独自の「解釈学(Hermeneutik)」を提唱するに至ったディルタイは、人間の「経験(Erfahrung)」あるいは「体験(Erleben, Erlebnis)」を強調する。この「経験/体験」の持つ日本語的なニュアンスの違いはここでは踏み込まないが、田中(2018)によれば、ディルタイが使う2つの用語をそれぞれ、"Erfahung"を"experience"と、"Erleben, Erlebnis"をより生々と体験された生きられたものを示すように"Lived experience"と英訳するのがディルタイ研究での元々の定訳だったようだ。
さらにジェンドリンは、自身の修士論文で、"erleben(体験する)"という動詞を名詞化した"das Erleben"に"experiencing"という動名詞を用い、"erleb-"に状態や結果を示す語尾"-nis"がついた"Erlebnis"のほうに、名詞としての"experience"という語をあてて訳出している(Gendlin, 1950)。三村(2015)はこのような訳し分けがディルタイよりむしろフッサールに見られるものだと指摘しているが、英語にはあって、ドイツ語にはない、この「進行形(-ing)」というものを用いたジェンドリンによるアクロバティックな用語の訳し分けを行ったのだった。「体験過程(experiencing)」という用語の考案動向にについては、より慎重な整理が必要のようである。
いずれにせよ、ジェンドリンはこの"-ing"という動名詞をつくる接語尾を意図的に駆使しで自身の用語を作っていることは確かである。単に動詞を名詞化する際にそうする必要があった、という英文法的な制約よりも以上の、積極的な意味をそこに見出すことができる。
2. "-ing"の機能:荒川+ギンズと「インギング」
ジェンドリン哲学における"-ing"のはたらきの極まりとして特記すべきは、2013年に発表された論文「アラカワ+ギンズ:アラカワ+ギンズ:有機体ー人間ー環境プロセス」である。この論文は、ジェンドリンの没後に刊行された重要論文集”Saying What We Mean”にも収録されてい。筆者による全文翻訳(関西大学東西学術研究所紀要、第50輯)がPDFにて公開されているので、ぜひご利用いただきたい。この論文でジェンドリンは、荒川+ギンズの思想と実践の特徴を自身の哲学と結びつけて考える際に、"-ing"という接尾辞に、さらに "-ing"をつけて"inging"という用語を導入するという、もっとアクロバティックなことをやってのけている。ジェンドリンの言葉遊びの巧みさには、いつも度肝を抜かれる。
荒川+ギンズの思想的主著と言える『建築する身体(Architectual body)』の第1章のタイトルは"Organism that persons"であり、ジェンドリンはここでこの"persons"が「動詞」として用いられていることに着目する。荒川は、私たち「人間」のことを、すでに分類学上に区別されたものとしてでも完成されたものとしてでもなく、有機体が「人間」という動詞を行っている存在であると捉える。先の筆者の訳では「人間化する」と訳しているが、もっと直接的に動詞的な言い回しで「人間する」あるいは「ひとる」などと表現できるかもしれない。
つまり私たちは、人間である(is)というより「人間をしている(persons)」をしているのである。もちろん他の動物(有機体)も、例えば荒川+ギンズが例として挙げるイヌ、キリン、ゴキブリも、「いぬる」「きりんる」あるいは「ごきぶる」という仕方で、それぞれの行動を生み出しているのである。
それ故に、動詞としてそのような行為を行っているに過ぎない以上、それを失敗することもあれば、それを超えることもある。環境の中での行為、つまり「人間化するという振る舞い」を変更することで、私たちは人間化された有機体であることを超えることができる。これにより、私たちが自身のことを「いずれ死すべき存在(mortal)」であるという宿命ですら反転できるという発想が、荒川+ギンズの「天命反転(Reversible Destiny)」という思想のコアである。
そして、私たちの行為を変えるために、さらにはその身体を変更するためには、環境を改変する必要がある。そのために荒川+ギンズが注目したのが「建築」である。
建築は、私たちの種にとって、みずからを形骸化するにも、みずからを別様に構成するにも役立つ最大の道具なのです(『建築する身体』p.36)。
私たちを私たちたらしめていること、つまり「人間」という振る舞いを私たちに強いているものは、他でもない私たちが暮らす「建築」であり、そのような環境を変更させることにより、私たちは人間を超えることができる。そのような身体−人間ー環境のつながりに注目し、それを利用して私たち自身の身体を変更させることが、「建築する身体」、そして荒川+ギンズに制作された「天命反転建築」のねらいである。
ジェンドリンはこうした"person"を「動詞」として用いるという動的な観点以外にも、環境(建築)と身体(有機体)、そして行為の相互作用的な捉え方にも強い同意を示している。特に、有機体、人間するという行為、環境をそれぞれハイフンでつなげている。原文ではこうなっている。
An Organism-person-environment has given birth to an organism-person-environment. (Architectual Body, p.1)
訳せば「環境を”ひとる”有機体が、環境を”ひとる”有機体を生み出した」となるだろう。ジェンドリンは論文「アラカワ+ギンズ」において、この環境、人間(すること)、有機体の3つが「全て同じ事物ではないが、全く別のものでもない」(p.382)と補足する。これらをすでに出来上がった区分として発想せずに、論文の副題の”the organisim-person-environmnet process”のようにハイフンでつなげられ、かつこれをプロセス(process)として捉えることに、重要な意味を見出している。
「身体」「人間」「環境」という3つの事物は、まず区別されたあとで組み合わせられるのではない。彼らがハイフンをつけることによって示している、生成すること(birthing) がまず初めに存在するのである。
この「インギング(inging)」(私が生成するプロセスと呼ぶもの)は、単に生成された出来事(birthed event)や内容(content)の連続のことではない(「アラカワ+ギンズ」p.382-383)。
ジェンドリンは、荒川+ギンズが行ったハイフン(-)を用いた概念間の関連を示す戦略(彼らの言葉でいうと「切り閉じ」(cleaving))と、人間、イヌ、キリン、ゴキブリなどを含む名詞を動詞化して用いるという戦略に、生成的な(birthing)特徴を見出し、自身の思想との共通点があると指摘している。
そして、その生成的な特徴を示す"-ing"という接尾辞自体に、さらに"-ing"をつけるという非常にジェンドリン的な「再帰的(reflexive)」な戦略をもって応答し、「インギング(inging)」というかたちで概念化したのであった。
筆者はかつてこの概念をその再帰的な特徴の語の構造を示すために音訳したが(「アラカワ+ギンズ」p.383 訳柱)、生成するプロセスを特徴づける"-ing"のまさにその機能を強調して、あるいは「生成性」や「作用化」などの漢訳による訳出が可能だったかもしれない。
もう1つ、上記の引用で重要なことは、この「インギング」という"-ing"で示された「生成する(birthing)」プロセスが、実際に「生成された(birthed)」もの、その事物や内容と対比的に用いられていることである。この"-ing"と"-ed"は、ジェンドリンにおいては単なる同格の対比ではなく、あらゆる"-ed"、つまり生成された内容は、"-ing"という生成プロセスの機能より生み出されると捉えられ、"-ing"の先行性が強調される。「プロセス」(-ing)が「内容(-ed)」を生み出すのである。
ジェンドリンは、自身の主著である『プロセスモデル』を、この"-ing"と"-ed"の関係を結合する概念モデルあると主張し、フォーカシングのいう方法は、「インギング」、"-ing"の生成的な機能へとアクセスする実践だと強調する。そして、荒川+ギンズの作品、そしてその建築の使用法などの彼らが用いた方法論は、私たちの体験、そしてその身体性が有する「インギング」というはたらきへとアクセスするための手段になっている。
アラカワ+ギンズの作品は、このインギングにアクセスする手段を提供する試みであり、このことによって私たちもまたインギングによって創造することができ、また彼らが実践するのと同じように、そこから語ることが可能となる。それらの新しい使用法では、言葉は新たな意味を要求している。このことは、言語と身体についての本質が、既存の意味やパターン、言い回しや概念によっては決して捉えられないことを示している(「アラカワ+ギンズ」p.383)
荒川+ギンズの建築作品には「使用法」がついている。これらの使用法を実際に「使用」するためには、その使用法に書かれた言葉の「新たな意味」が要求され、私たちはその意味を自らの身体をもって生成する(birthing)ことが必須になる(詳細は、拙論「臨床的手続き」としての建築とその使用法ージェンドリンと荒川+ギンズー」(『 22世紀の荒川修作+マドリン・ギンズ 天命反転する経験と身体』フィルムアート社)をお読みいただきたい)。
また、引用にある「言葉の新たな意味の要求」という使用法の特徴は、フォーカシングという方法・実践でも求められることである。ジェンドリンと荒川+ギンズの両者に共通するその身体論の特徴、そして彼らのメソドロジーが有する生成的な力は、"-ing"という接尾辞に精密に現れている。
3. 「こと」の現れ:木村敏と"timing"
ジェンドリンが強調した"inging"のはたらき、そして"-ing"と"-ed"に関する対比的な議論について取り上げた、日本の「知の巨人」がもう一人いる。精神病理学者の木村敏である。木村は著書『時間と自己』(中公新書)においてて、ものとことの対比として以下のように記述している。
(…)もしわれわれが世界を客観的に見ることをやめるなら、あるいはすくなくとも、客観的に見ることをやめた場合を想像してみさえするなら、この世界はものだけによって成り立っているのではないことがわかってくる。客観的・対象的な物として現れるのではないような、それとは全く別種の世界の現れかたがあることがわかってくる。そしてそういった世界の現れ方のことを、日本語では「こと」と呼んでいる。
私がここにいるということ、私の前に机や原稿があるということ、いま私がその上に文字を書いているということ、私が長らく時間という問題について考えているということ、これらはすべてものではなくことである。私がタバコを吸いたいと思っていて、ライターが見つからない、というのもことである(『時間と自己』p.8)。
例えば木村は、「木からリンゴが落ちる」という「こと」は、単にリンゴという物質(もの)の運動という客観的な物理現象に還元しきれないと指摘する。実際、そのような還元された「木から落ちる」は、「『落ちる』ということを、暗黙のうちに『落下』というものにすりかえている」(p.10)ことで成立する。「落ちる」ということは、自己の経験と切り離して個別的に生じ得ない。ものは客観的に成立するとしても、ことは個人の経験に支えられて初めて成立することである。
そして、木村のいうこの「こと」と「もの」の対比は、ジェンドリンのいう"-ing"と"-ed"の対比とパラレルになっているになっているのである。ジェンドリンも木村も、もちろん荒川+ギンズも、現象学から直接的な影響を受けている。それこそ彼らの考えはこの現象学の山脈に連なっているとも言えるので、似ているもの当たり前の話である。ただ、特にこの"-ing"と「こと」の対応関係には、両者の思想に共通する生成的な特徴がよく反映していると思われる。
このことの興味深い例が、メタファーである。「落ちる」ということは、物理的なものの落下を指し示す語としてだけでなく、多様なメタファー(レイコフ&ジョンソン(1980)のいう「概念メタファー」)として用いられうる。ここに経験の「こと」性が関わっている。長いが重要なところなので、忘備録もかねて引用したい。
このことはまた、「落ちる」が客観的・物理的な落下、つまり物体の上方から下方への空間的意味を超えて、多くの比喩的な意味においても用いられることとも関係がある。名声が地に堕ちる、城が落ちる、品質が落ちる、都を落ちる、憑き物が落ちる等々、数えあげればキリがないだろう。これらすべての「落ちる」には、こととしての、主観の経験としての共通性がある。こととして見るかぎり、これらはすべて「同じこと」なのであって、リンゴが木から落ちるのは、単にその一つの事例にすぎない。落ちるという語が、元来は物体の落下を指す語であったとしても、その実際の使用においては-つまり「話す主観」が語る生きた言葉としては-他の多くの比喩的用法と並ぶ一つの比喩に過ぎないのである(『時間と自己』p.11)。
ここで「落ちる」という日常にありふれた比喩的な言語運用の実例、それも「話す主体」が生きた言葉の「こと」としての特徴は、ジェンドリンが「あらゆる言語はメタファー的である」と創造的な言語運用、メタフォリカルな言語運用と共通している。生きた言葉(メタファー)は、「こと」のはたらき、つまりジェンドリンのいう”inging”のはたらきによって、意味を成す。このメタファーという創造的な言語運用を可能にしているのが、「こと」性を帯びた「経験」や「感性」であると木村は続ける。
われわれは眼でものを見る。木から落ちるリンゴやその落下は、眼で見られるものである。しかしわれわれは「落ちる」ということを眼で見ることはできない。見えているのはあくまでリンゴであり、その落下である。「リンゴが木から落ちる」ということそれ自身は、「試験に落ちる」ことや「腑に落ちる」ことが眼に見えないのと同様に眼に見えない。眼には見えないけれども、われわれはそれを確実に経験している。それは客観的な知覚対象とはならないけれども、われわれはそれを的確に経験する一種の感性を持っている。この感性は、いっさいの言語の比喩用法を可能にする基本的な感性であって、古来「共通感覚(センスス・コムニス)」の名で呼ばれてきたものである(『時間と自己』p.11)。
ことは眼には見えないが、いつでも、どこでも、私たちの経験において背景的に働いている一種の「感性」として働いていて、まさしくこれが、私たちに比喩を可能たらしめている。木村はそれをここで「共通感覚」と呼んだのだった。ジェンドリンも独自のメタファー論を展開しているが(岡村, 2015を参照)、彼ならもちろん、これを「フェルトセンス」と呼ぶだろう。
木村のいう「こと」は、私たちの日常経験の成り立ちを、根源的に、そして背景的に支えているものであり、ジェンドリンはそれを"-ing"という接尾辞を駆使して表現しようとしたのであった。興味深いのは、木村がこのような自己をめぐる時間性を論じる際に「タイミング(timing)」という語を使い、統合失調症の当事者の語りを記述していることである(「タイミングと自己」『偶然性の精神病理』)。
人と話していてタイミングがずれる、間がもたない、タイミングが狂うというような時に使われる"tim-ing"もまた、ジェンドリンのいう"inging"のはたらきの、何らかの現れが反映されている。
「タイミング」という外来語は、日本では野球で「バッターがピッチャーのボールにタイミングを合わせる」だったり、何か「ご自身のタイミングで始めてください」だったり、比較的に日常でも頻繁に使われる言い回しであろう。一方で、英語ではこの、"timing"、つまり"time"の動詞的用法(時間を合わせる)に"-ing"をつけた言い回しは、例えば"living"や"reading"などと違い、そこまでポピュラーな言い回しではないと言われる(「タイミングと自己」, p.111)。フランス語やドイツ語にも、この「タイミング」にぴったりと相当する言葉はないという。ジェンドリンも木村も、まさに言語の「あいだ」にある生きられた生成的な何かに、言葉を尽くして迫ろうとしたのであった。
4. 「こと」が起こる/起こらない:冒険という営み
ここまで、ジェンドリン、荒川+ギンズ、木村という「実践する思想家」たちが残した知的山脈の稜線をなぞりながら、“-ing”について探求してきた。最後に「登山」のメタファーに立ち返ろう。
登山とは本来、「ことがおこらない(事が起こらない)」ように運ばれるのが良いものである。ここでいう「こと」とは、何か重大な事案、予期せぬ事態、対応できない事案のことである。登山は計画通りのタイミングで、計画通りのルートを進み、そして計画変更プランなども”予め”想定していることが求められる。それができていないのであれば準備不足であり、安全登山とは言えないだろう。
こういった事前準備や計画的な遂行という、ある種の「筋書き通りの進行を大切にする」登山の特徴は、心理学をはじめ学問をする際の”喩え”としてたびたび用いられる。例えば研究という営みを表現する際、もう一人、今度は本邦の質的研究の第一人者である、やまだようこによる記述を参照しよう。
研究とは、質的研究に限らず、未知の世界に向かって挑戦し、今までに知られていなかった新しい見方や知識を得る営みである。未知の世界といっても、山に登るのか海に潜るのか、目的となる領域や対象によって執拗な技能も異なる。山へ行くと決めたとしても、山への登り方は1つではない。アプローチ方法は多種ある。(「質的心理学とは」p.2)
学問をするということは、それこそ巨人の肩の力を多分に借りたとしても、未知の領域に一歩足を踏み入れる行為である。その山の登り方自体が手探りであることがほとんどであるが、特に自然科学的なアプローチ、広く心理学を含む仮設演繹法に基づく学問の方法論と、質的なアプローチの対比において、「山登り」や「建築」というメタファーは示唆的である。
仮設演繹法の問い方は、「この山に金鉱はあるか」「殺人犯は誰か」など、答えが明確に出る検証(反証)可能なかたちでなければならない。この問い方は、「宝探し」や「犯人探し」、あるいは地図持参の「山登り」にたとえられる。目標(仮説と研究対象)が明確で、より効率的に目標に到達する道具と道順(測定道具と手続き)を選んで追求し、結果の聖火は明確な基準(実証データや統計的検定など)で判定される。
それに対して、質的研究は、未知の世界に向かって手探りで道なき原野(フィールド)を進む冒険(ウィリッグ, 2003/2001)、あるいは手持ちの限られた材料と手段でデザインして家を建てる「日曜大工(プリコラージュ)」の建築家(レヴィ=ストロース)にたとえられる。(「質的心理学とは」p.4)
哲学者であるジェンドリンの学的な歩みは、明らかに質的研究におけるそれに属するものであり、かつジェンドリンのテキストの記述それ自体が、行きつ戻りつ、手探りで言語運用の実例を示していくような、ウィリッグのいう”道なき原野を進む「冒険」”に近い。むしろ、フォーカシングという実践自体が、身体感覚を手がかりとした状況への「冒険」である。
同様に、ここで建築のモチーフが出てくることも面白い。荒川+ギンズは、まずアーティストとしてまさに「ブループリント(建築物の設計図)」を模したような精緻に図形的な絵画作品群『意味のメカニズム』にて脚光を浴びることになったが、その後に建築作品へと表現形式を移していった後、東京・三鷹にある『三鷹天命反転住宅 イン メモリー オブ ヘレン・ケラー』では、その着工過程で実際に建築に携わった大工さんたちの意見を多分に取り入れ、あるいは法令的な折衷しながら、現場現場であらゆる手段を駆使して建築されていったという逸話を聞いた。
荒川+ギンズの建築作品を体験する際に求められる「手探り感」は、その制作過程でも見受けられたようだ。荒川+ギンズほど建築を「冒険」している建築家は他にいるだろうか。
やまだが「質的心理学者は、建築士のように設計図通りに完璧な家を建てるのではなく、現場(フィールド)で野生の思考をしながら手探りで世界を構築する日曜大工(プリコラージュ)のように仕事をする(p.4)」と強調しているのと同様、ジェンドリンも、荒川+ギンズも、自身らの仕事の仕方にそのような特徴を内包している。ジェンドリンはその特徴に"ing"という言い回しを当てたのだった。木村もまた、臨床という筋書きのない現場の知から、その臨床哲学を立ち上げていったのである。
”ing”は現場で起こる。フォーカシングは、その現場を生きる身体に「問いかける」営みである。やまだは以下のように強調する。
(...)質的研究では、自由記述のように開かれた問い(オープン・クエスチョン)を発する。「人はAの文脈でどのように出来事を意味づけるか?」など、現場(フィールド)で複雑な相互作用によって生起する「出来事」「文脈」に関心を抱いて、問いを発するのである。(「質的心理学とは」p.4)
質的研究における問いの機能と同様に、フォーカシングにおける「問いかけ(asking)」はこの実践の本質的な特徴である。しかし、もう長くなってしまったので、続きはまたの別の機会に。
おわりに
今回は翻って「ジェンドリン哲学はどのように”登山”ではないのか」を示すことになった。ジェンドリン哲学を歩むことは未だ”冒険的”であり、登山道が整備されていない状況にある。ただ、多くの人にアクセスしてもらうためには、安全に歩める山道整備が必須である。その景色を多くに人に届けるために、行きつ戻りつしながら、少しずつジェンドリン哲学を整理していこう。
<お知らせとお願い>
先に挙げた荒川+ギンズによる”住めるアート作品”『三鷹天命反転住宅 イン メモリー オブ ヘレン・ケラー』が、現在存続の危機を迎えています。施工15周年を迎え、大規模な修繕が計画されていましたが、コロナ禍の影響もあり、住宅の長期的・永続的な運営に危機が生じています。
そこで現在、修繕費用のためのクラウドファインディングがスタートしました(2021年12月10日まで)。下記のリンクに詳細があります。私たちの身体性への大きな気づきをもたらしてくれる、現代の”聖地”を未来への残すべく、ぜひ皆様のご協力をお願いいたします。未来の天明反転住宅でお会いしましょう。
出典
Gendlin, E. T. ( 2017). A Process Model. Northwestern University Press. Evanston.
ユージン・ジェンドリン(著) 岡村心平(訳)(2017).アラカワ+ギンズ:有機体ー人間ー環境プロセス(Gendlin, 2013の邦訳) 『関西大学東西学術研究所紀要』第50輯, p.381-393.
木村敏 (1982). 『時間と自己』 中公新書.
木村敏 (2000). 『偶然性の精神病理』岩波現代文庫.
レイコフ, G. & ジョンソン, M. (著) 渡部昇一・楠瀬淳三・下谷和幸(訳)(1986). 『レトリックと人生』大修館書店.
Madeline Gins and Arakawa (2002). Architectural Body. Tuscaloosa: University of Alabama Press. (河本英夫(訳) (2017).『建築する身体 人間を超えていくために』 春秋社.)
三村尚彦 (2015)『体験を問いつづける哲学 第1巻 初期ジェンドリン哲学と体験過程理論.』ratik.
岡村心平 (2015). ジェンドリンにおけるメタファー観の進展 Psychologist:関西大学臨床心理専門職大学院 紀要 第5号, p.9-18
岡村心平 (2019).「臨床的手続き」としての建築とその使用法.『22世紀の荒川修作+マドリン・ギンズ』フィルムアート社,p.139-153.
田中秀男 (2018).フォーカシングの成立と実践の背景に関する研究 : その創成期と体験過程理論をめぐって 関西大学 学位論文 34416 甲第701号.
ウィリッグ, C. (著)上淵寿, 大家まゆみ, 小松孝至(訳) (2003). 『心理学のための質的研究入門: 創造的な探究に向けて』 培風館.
やまだようこ (2007). 質的心理学とは やまだようこ(編) 『研究の方法ー語りをきくー』 新曜社 p.2-15.
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?