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黒駒と黒駒不動尊その1

令和6年・不動尊の世話人を仰せつかった。
振り返ってみると知らないことばかりが山積しているので、良い機会と様々調べてみることにした。
1)そもそも黒駒の地名
2)歴史と遺跡
3)黒駒不動尊のこと

『黒駒』なる地名
固有名詞で有名なのは、江戸末期に清水の次郎長をはじめとした侠客が台頭した時代。次郎長の対抗馬として、山梨県(現在の笛吹市)に『黒駒の勝蔵』なる侠客(やくざもんですね)が存在してたようだ。
中学校の地図で黒駒を見つけた時には、なぜか親近感を覚えた。
もう一か所。兵庫県加西市に黒駒なる地名が遺されている。
明治生まれのジイサンたちの口伝では、諸説あるが、
〇聖徳太子が黒い馬に騎乗し、当地を訪れた。その際に馬が死んでしまったので、葬った。
〇昔々西の公暁さんが黒い馬に乗り、当地を訪れた。
その折に騎乗していた馬が死んでしまったので、葬った。

『駒の墓』と掘られた石碑が建立され、畑の中の一角に塚になっている。

それから黒駒なる地名になった!とされている。
誰も観たわけでは無いからそれぞれが伝承を受け止めることも一興かと。
実は奈良県に『駒塚古墳』と呼ばれる聖徳太子が騎乗していた🐎の古墳(墓)があるとされています。甲斐の国から贈られた黒駒だったそうです。
当時、まだ大和政権が関東まで類を及ぼしていたとは考えにくく、後世に奈良、京都とつながりが出来た人物が遺した伝承かも知れません。
駒の墓が設置された年代のが不明であり、後世の駒城攻防戦との関連も否定できませんね。

前方後円墳(浅間塚)と駒城

ピンクの枠線内が黒駒です!

市役所の指定文化財が三か所あります。
史跡として、①浅間塚古墳 ②駒城址 建造物として、③五輪の塔(塚田家の墓地内) 駒の墓と不動尊は史跡指定はされておりません。
駒城址は市に寄贈されてますが、浅間塚古墳は個人所有とされているようです。五輪の塔は墓地内ですから、むろん、個人所有ですね。
浅間塚古墳と駒の墓は登記を調べてみたいと考えてますが、、、、。
下妻へ行くのは最近、億劫でね(*^^*)
なにゆえ、田んぼの上に、前方後円墳があるかと云えば、この水田は、古代鬼怒川の流路跡であるのは間違いあります。
平方肥土とか、関城肥土として地名が残されてますが、肥土(あくと)は、文字通り、肥えた土のこと。
鬼怒川が日光連山から、有機物と石と砂を運んで堆積した土地ですね。
平方では聞いたことがありませんが、上野西郷から本郷にかけての一部の水田は、砂利採取目的で掘られています。



鬼怒川は暴れ川でもあり、上流から大量の宝を運び成立した水田が、関城肥土から平方~桐ケ瀬にかけての肥土田と勝手に推測しています。

2019年9月13日の鬼怒川の流れ

前方後円墳の設置は、案内板によれば、6世紀から7世紀とされています。
最大の古墳とされる(伝仁徳天皇陵、大阪府堺市)建立が5世紀前半から中盤とされてますから、それから100年~200年後に当地に伝わった?
東に旧鬼怒川が流れ、南北に県指定縄文遺跡の台地が数kmに渡ってます。
そのほぼ、真ん中に位置しているのが遺跡『浅間塚古墳』と呼ばれる前方後円墳。

現地に入るといろんな想像が浮かんでくる。
史跡の北側に周囲から一段下がった水田がみえる。
この土を掘り起こし、墳墓にしたんであろうと勝手に推測している。
であれば数名では出来まい。
ユンボもブルも無い時代。モッコと鉄器くらいはあったであろうからどれほどの人工が関わったのか? 逆に関わらせることが出来たのか?
案内板には、平方~久下田の開田をした豪族?と書かれている。

森が古墳。ここだけ水田になっている。
お氣に入りの冬の一枚

黒駒1番地と五輪の塔

お不動様にも関連することですが、黒駒の1番地を含め、平方の付き合いをされている。

道路を挟んで左が平方。右が黒駒です。

司法書士の吉田先生から伺ったんですが、江村の一番地は、神明両社と聞いた。調べてみたら、その通りだった。
番地表記をしたのは、明治期なんだろうね?
何かしら意味のある地番かと思う。
五輪の塔
とある一族の墓。中央に大本家の墓と隣接し、五輪の塔が建立されている。
大谷石でつくられたものらしい。
五輪の塔は諸説あるが、日本の密教の世界で原型が出来たようだ。
五輪は、上から、空輪 風輪 火輪 水輪 地輪。宇宙を指すようです。
お天道様は空に含まれているんでしょうね。
ちなみに、卒塔婆も五輪を顕してるそうです。

五輪




駒城橋と右に白く見えるのが渡しばへの降り道?

渡し船と竹林とムクドリを鬼怒川堤防に来ると思い出す。
たぶん、70歳を超えた世代以外は記憶に無かろうが、昭和30年代前半までは、鬼怒川の堤防内の竹林や雑木林を塒にしたそれこそ、大群のムクドリ集団が存在した。明け方に空を覆うほどの群れが西から東へ飛んでいた。
なんども繰り返し、群れが飛んでいた。
同じく、子どもの頃何度か、ここの渡し船に乗って対岸に渡った。
記憶が残っているのは、山川の不動尊に行った折だったか?
渡しから不動尊までは4~5kmあるはずだから、どうやって行ったんだろう?今でも対岸の土手には、渡し船があった当時の道が残されているようだ。思い出しついでに、鬼怒川は高度経済成長時。
砂利砂の採取場所だった。たぶん、村内にも数か所点在していたかと。
記憶では、渡しの上流、下流にワイヤーで吊った採取器材が存在していた。
影響は後世に無かったとは言えまいね。
が、ここの主題ではないので、一点だけで止めおく。
昭和54年だったと思う。当時、消防団員だった。
ここから下流の蛇行した鬼怒川で子どもたち6名が水難事故にあった。兄弟も居たやに記憶している。
親御さんは知り合いでもあり、もう、視てられなかった。
記憶は曖昧だが、砂利砂採取跡だったかと思う。
もう一点だけ遺して置きます。
母校の上妻小学校の校歌は、渋井出身の門井八郎氏の作詞、と思い、上妻小学校のHPを観たが、校歌が掲載されていない?
ありました!

軽く考えていたが、まだまだ続く。
今朝はここまでにして、思い立ったら、その2 続編を書いておきます。

縄文遺跡指定の台地から見える冬の富士山



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