黒駒と黒駒不動尊その2
判明している歴史と遺跡
忠魂碑(昭和29年建立)
上妻小学校のプール傍らに石碑が建立されている。
忠魂碑と碑には記載されている。
明治維新以降の戦死者が祀られている。
昭和29年建立とあります。
この年は市町村合併があり、真壁郡上妻村が消滅し、6月1日に下妻市になった年です。市制移管の直前に建立されてます。
予算も含め、先人の皆さんは思うところ多々だったんでしょうね?
ちなみに、当時の村長は、〇〇〇〇氏。
ちなみに、石碑の裏に戦死者の名前200名弱全員が彫られている。
最初の戦死者は、日清戦争時、たったひとり、稲生さんの名前が見える。平方に稲生姓があります。
大東亜戦争末期に、水戸二連隊は満州から南太平洋のパラオ(現パラオ共和国)に転戦します。
戦死者の一部の皆さんは、パラオのペリリュウ島で玉砕していることは、帰郷後に知った。
ちなみに、ペリリュウ島の守備連隊は、三個大隊。主力は高崎十五連隊だったようですが、水戸二連隊からも一個大隊が派遣されています。
三個大隊の大隊長のうち、お二人は、隣接している、旧関城町出身。
旧関城町稲荷出身の飯田義榮中佐と同じく関城町嘉家佐和出身の富田保二少佐のお二人。(この事も知らずに居たが、親切な方が居られ、指摘された)
お二人の生家とお墓を探し当てるまでに、半年を要した。
戦後教育もあろうし、占領政策もあったろうし、復員された皆さんも口を噤まれていた。ある種の禁句とされた大東亜戦争の歴史は埋もれさせられてきた感が否めない。
幸いなことに生まれ育った上妻地区の小中学校は日教組の影響が、ほぼ、無い地域ゆえ、君が代も日の丸掲揚も行われてきている。
未だに一部の地域では、日の丸掲揚を拒み、君が代斉唱も拒んでいるそうな。國を愛せない、先祖に感謝の念を抱けないで、家族や地域を護る氣概が醸成されるとは到底思えない。
我が家では、帰郷以来、庭先に日の丸の幟を雨が降らない限り掲揚している。旗日関係無しに掲揚している。
後に、聴かされたことだが、あいつは、極右だから近づくな!と噂されてるそうな!(^^)!
国旗掲揚すると極右とされることに違和感を覚えるよね( 一一)
どんどん脇道に逸れるので、ここまで。
縄文遺跡群と駒城、駒の墓、浅間塚(前方後円墳)と五輪の塔
江村から桐ケ瀬にかけての畑地は全域が縄文遺跡に指定されていることも最近知った。
誰も教えてくれないからね。
畑から土器が時折、出土したことは昔聞いたことがある。トラクターの無い時代のことかと。今では大型のトラクターが耕すゆえ、土器は地中深く眠ったものでないと粉々になってしまいます。
余談ですが、昭和30年代に駒城周辺で、兎の餌を採りにいった折に、ボロボロの刀剣をみつけたことがある。
たぶん、捨ててきたと思うが、小学生だからね。興味も知識も無かった。
土器の欠片もなんどか見つけたことがあったが、よもや縄文土器とは思いもよらず。
この畑地に隣接して水田が広がる。
紛れもなく、この水田は、古代鬼怒川の流れのひとつであろうね。
古代の生活は、水辺にあった筈。あたりまえに、水道設備なんぞ存在しない時代でもあり、当地は平地。当然、水辺に生活圏が存在したことは自明。
浅間塚(前方後円墳)
浅間塚の北側に20~30㌃の水田が存在します。
この土を盛り上げて設置したんであろうと推測してます。
50mある前方後円墳を設置したゆえ、それなりの豪族ではあったろうが、関西にある墳墓とは規模も動員数も力もこの程度だったんであろうが、特筆すべきは、それだけの力をもった豪族が蟠踞していたことにあります。
6~7世紀とされてますから、1500年以上も昔。
この方の子孫は、現在でも地域に居住しているんだろうか? それとも離散したんだろうか? 南北朝まで生き残り、高師冬軍と戦ったんだろうか?
駒城址
南北朝時代の城跡で、東西120m、南北180mで、城跡の北西部に「駒城址」の碑があります。
つくば市にあった小田城、関城町にあった関城、下妻市の大宝城とともに、南朝側の常陸国における重要な戦略的拠点でしたが、1340年、北朝側の高師冬(こうのもろふゆ)の猛攻にあって落城しました。(下妻市HP記載を転記)
ここも、当時豪族が居たことの証左であろうと勝手に推測している。
浅間塚を建立した一族の子孫なのか?
1340年とあるから、これ以前の戦乱は平将門の乱。戦乱が収束したのは、940年。当地は微妙な位置に置かれたものと思う。下野の国司だった藤原秀郷以下に将門は攻められ滅んでいる。当時の本拠地は現在の坂東市。
それ以前は、一時期、現在は市内になっている、旧千代川村鎌庭が本拠地だったとされている。下館の水谷氏は秀郷に従っており、当地は狭間に置かれた筈。関連が無かったとは思えない。
駒の墓
伝承には概ね二つあるようだ。
〇聖徳太子が黒い馬に騎乗し、当地を訪れた折に馬が当地で死んでいる。
弔った塚が駒の墓。
〇公卿さんが当地に黒い馬に騎乗し、訪れた折に馬が亡くなった。
騎乗者が公卿さんと聖徳太子に代わっているだけで、過半の伝承はこの二つ。いずれにしても大和朝廷が成立間もないころのことになる。
当地を改めて訪れてみて感じたことがある。
筑波山の見える畑の一角に土盛りをし、巾3m、長さ10m強の塚。
駒城の南東にあたる。
南北朝の戦死者を祀ったとも考えられるが、歴史は全てが伝承と文献、発掘により成立している。
いずれの説も並立してよいのではなかろうか?
個人的には、浅間塚~駒の墓~駒城が、後に述べるが、五輪塔が同一箇所に点在していることに当時の隆盛と拠点とを思い浮かべる。
五輪の塔
駒の墓から北に100ほどのところに一族の墓地がある。
墓地の中心に、鎮座しているのが五輪の塔。
石は大谷石とされている。
鬼怒川を下ってきたものであろうね。
黒駒神社
他に大切な神社が存在してます。
こちらも建立時代は、不明です。
黒駒神社です。
現在はどうされているか不明ですが、知りうる範囲で、御七やのお詣りさきは、集落内では当地だった筈。
たぶん、聴いてないが、ジイサンもここにお参りさせていただいている。
思って以上に時間を要した。
画像を探すのに手間取ったのが主因。
簡単に書こうと始めたが、元来がクドイ性格なのかも知れません(*^^*)
文責はすべて小生にあります。
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