もうひとつの「下妻ものがたり」

 ~大東亜戦争と戦後と現代社会と未来~争と戦後と現代社会と未来~

はじめに「二人の少佐を追いかけて」
南洋、フィリッピンの東隣に、人口2万人弱の国・パラオ共和国がある。サンゴ礁に囲まれた美しい国。日本の大使館も置かれ、親日国のひとつでもあります。
国名は知ってましたが、ひょんなことでご縁のある人物がパラオ大使で赴任していること。上皇、上皇后も慰霊に尋ねていたこと。玉砕の島ペリリュー島はパラオ国内の島の一つであること。中心の軍隊は、水戸二連隊と高崎十五連隊であること。中でものけぞったのは、水戸二連隊および高崎十五連隊の大隊長として二人の卒業生、それも大先輩が関わっていたことを知った。
愕然とした瞬間は、ネットで見つけた上毛新聞の記事だった。高崎十五連隊第二大隊長として戦死された人物と水戸第二連隊第二大隊長として戦死居されたお二人。旧制下妻中学の先輩後輩であり、且つ隣村の出身者とあった。在京時は毎年、新年と終戦記念日には靖国さんと千鳥ヶ淵には詣でても居た。別に右翼でも戦争賛美者でも無かったが、現代人の義務であろうと感じていたからでもある。
本人から聴いたことは一度も無かったが、大正生まれの父親は海軍の志願飛行兵だったこと、所属は銀河特攻隊の一員だったことも遺品から判明した。
自宅の先祖の一人が日露戦争で戦死しており、自宅裏にその人物の石碑があることも認識していた。
何よりも、高校に入学してから友達に貸してもらった海軍特攻兵の記録「きけ わだつみのこえ」が強烈に印象に残っていた身。
知った以上は、墓参りだけはしなければなるまい!と念じて、生家とお墓を探す旅を始めた。当初は簡単に探せると思い、高校に出向いたが、応対してくれた校長先生曰く。資料は散逸していて、同窓会名簿にしか記載されていないとの由。旧村名だけでも判明すればと出向いたが、手がかりは得られていない。
名字からわたりをつけて、最初に、旧関城町木戸の飯田氏を訪ねた。
知る人も少なくなったようだが、筑波天狗党に馳せ参じてイノチを落とした幕末の義士飯田軍蔵氏の血筋であろうと推測。が、墓守をされている院長氏も本家の当主の奥方も聞いたことが無い!と仰せ。飯田家も(想像だが)いっときは、徳川幕府の意向に逆らったとされた時代もあったろうし、記憶の片隅に遺そうとされた遺族もあったのかも知れない。
現在は筑西市木戸の飯田医院の広大な屋敷の一角に彼の墓標があり、護って居られる。が当時は反逆者の汚名を着せられていたのは紛れも無かろう。後の世にも水戸天狗党や、藤田小四郎や武田耕雲斎の名前は出ても、彼の名前は出てくることは無い。いつの時代も個人から出来事を見たら、真実は観えてこない。ちなみに、遺された資料では、天狗党軍務兼風紀取締方とある。参謀待遇であったろうか? 150年前に江戸に居たのも驚愕だが、当時でも世間を広く見聞していたことがわかる。ちなみに、茨城新聞社、茨城中学・高校の実質的な創始者でもある、集落出身者の飯村丈三郎翁は、少年期に黒子の妙心寺に小僧として住み込み、そこで、飯田軍蔵との知遇を得たそうだ。うろ覚えでしか無いが、自民党の幹事長まで務めた常陸太田市の故梶山静六氏(現経産大臣の梶山弘志氏のご尊父)も天狗党の子孫と聞いた記憶がある。
二人の少佐のことは、ペリリュー島の闘いを書籍を読み漁りまとめているので、仔細は次から書いていきたいと考えている。が、先の大東亜戦争の歴史も私感でしかないが、まとめなければいけないし、育った村のこと、昭和の時代のことも書き記しておきたいと、地域の未来のことも書いてみたいと感じてもいる。過去に共著も含め三冊の本を書かせていただいた。年齢のことも含め、最後の本のつもりで書かなければならないかな?とも。

因縁生起なる日本語がある。仏教用語らしい。
うろ覚えだが、縁起の二文字はここから来ているようだ。
全ての事象には、原因があるとの意味であろうか?
歴史にこだわるのは、ここにあると感じている。ゆえに、時間をつくり歴史を追い続ける人生であり続けたいと念じている。むろん、郷土の一員として住民である以上は、行政に対しても、提言、提案は続けなければならないとも感じている。政治は、政治家だけがおこなうものでも、権限者でもあるまい!市民一人一人の中に政治は存在するものであり、市議会と執行部のものでは決してないことは自明。市議会がその責務を果たせず、執行部がオザナリな政策と先送り、横並びで由!とするようであれば、これも指弾しなければなりません。
それこそが、市内でも1,000名を超える戦死者に対する義務でもあろうかと。

脚注  飯田軍蔵氏(1834-1864)
天保12年、真壁郡木戸村の名主飯田軍吉の長男として生まれる。下妻の山本樵山、江戸の安積艮斎、水戸で加倉井砂山に学び、勤皇思想に染まる。安政7年、所用で江戸に行った際に、偶然桜田門外の変に遭遇。その惨劇を目のあたりにした。その後、私財を投げうち私塾文武館を創設。人材の育成に努める。元治元年、藤田小四郎の呼びかけに応じ、先祖代々の田畑を売って義弟、従者と共に参加する。下妻夜襲の指揮などで活躍し、天狗党を牽引するが、那珂湊の戦いで、敵弾を左膝に受けて戦線を離脱。松本嘉吉と名乗って幕軍に投降したが、見破られて投獄され、獄中で傷が悪化して獄死した。

遺作



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