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【ネタバレ厳禁】映画『NOPE』を考察する【視線にまつわる物語】

自分が映画を観る理由はいくつかある。感動を期待したり、好きな世界観に浸りたかったり、知らない世界を覗いてみたかったりと様々だ。その中にまだ自分が見たこともない未知のものを観せてくれるからという理由がある。『NOPE』はそんなワクワクにも似たような気持ちをくすぐられる作品だった。

『NOPE』はアメリカの田舎の牧場を舞台に謎の現象に翻弄される兄妹の姿を描いた作品だ。監督は『ゲット・アウト』、『アス』のジョーダン・ピール。日本では8月26日から公開している。

鑑賞したの8月30日の109シネマズ名古屋の14:55~の回。観客数は20~30人くらい。

SNSで感想を見る限り、賛否両論の印象が強い本作。ただ、全員に共通しているのが内容を知らずに観た方が面白いということ。

これより以下は『NOPE』のネタバレありの感想になるので、未見で興味ある方は読まないようご注意ください。

※以下は本編の内容に触れています。未鑑賞の方はご注意下さい。

2022年製作/131分/G/アメリカ

【感想と考察】

「不思議な映画」というのが観終わった直後に抱いた印象だった。馬鹿げた話を大真面目にやってるような映画で、例えるならM・ナイト・シャマランの作品のような感触もあったし、特撮ドラマの『ウルトラQ』のような雰囲気も感じた。

本作は、見る・見られるという「視線」が物語の軸になっている作品である。これは劇中でメインストーリーとなる「Gジャンの目を見なければ攻撃されない」ことに限った話でない。登場人物の人生には何かしらの「視線」にまつわるエピソードが絡んでいる。

主役のOJ一家は『動く馬』という世界で最初の映画に出演しているのに、その存在を黙殺された騎手の子孫というルーツがある。この出自自体が「黒人差別」に対するメッセージであり、物語の原動力にもなっている。

OJたちが、命の危険も顧みずにGジャンの写真を撮ろうとすることに、何故そこまでこだわるのか?と疑問を持つ人もいるかもしれない。だが、Gジャンの写真を撮り注目を浴びることは、祖先の存在を黙殺してきた社会へのOJたちの逆襲劇にもなっているのだ。

加えて、エメラルドは、父親から(恐らく女であるがゆえに)兄ほど寵愛を受けてもらえなかったことがコンプレックスになっていることも伺える。この場面には、女性軽視の歴史に対するジョーダン・ピールのメッセージも込められているのだろう。

エメラルドはOJに比べるとひと際、自分たちの出自のルーツにこだわっているように見える(彼女が自己紹介時の前説に必ず祖先の話をすることや家で祖先の映像を観ていることからも分かる)。

エメラルドのこうした行動は、父親から目を向けて貰えなかった自身の境遇と、社会から黙殺された自分たちの歴史を重ねているからなのかもしれない。だからこそ、エメラルドはあそこまで写真に収めることに奮闘するし、ラストのOJの姿に涙するのだ。

次にジュープの回想の中で語られるチンパンジーのゴーディがもたらした惨劇、これも「視線」が原因だ。この惨劇はアメリカで起きた実際の事件がもとになっていると言われている。2009年にタレントとして活躍していたチンパンジーのトラビスが、飼い主の友人の女性を襲い重傷を負わせたという事件だ。

ゴーディがなぜ暴れたか?という理由は、劇中では明言されていない。だが、劇中の描写から見世物として多くの人に見られたことが、ゴーディに多大なストレスを与えてきたということは推察できるだろう。

ストレスの末、ゴーディは暴走し、見るものと見られるものの立場が逆転した。好奇な視線を向けていた人々はゴーディを恐れ決して目を向けようとはしない。これも「視線」にまつわる物語の1つだ。

映画冒頭「私はあなたの上に汚物を投げつけ、あなたを軽蔑し、見世物にする」というテロップが映し出される。これは旧約聖書の「ナホム書 第3章6節」を引用した文章だ。劇中の行動から、この一節の「私」が映画内でのGジャンのことを指していることが分かる。そして、それはタレントとして見世物にされてきたゴーディにも当てはまる。

ナホム書のこの一節は、本来、堕落した首都ニネヴェに対し、神が裁きを下すという内容を表してる。劇中のキャラクターに当てはめるなら「神」はGジャンでありゴーディだ。「あなた」は私たち人間自身だろう。そう考えると、本作は、本来、人間が本来コントロールできないものが、自分たちを見世物のように扱おうとした人間の傲慢さに対して裁きを下すという風に捉えれるのだ。

ジュープとGジャンの関係性についても推察していきたい。物語後半、ジュープがGジャンの存在を知っていただけでなく、実は飼いならそうとしていたことも判明する。ではジュープは何をするつもりだったのか?

その答えはジュープの過去の回想のゴーディ事件にある。暴走し多大な被害を与えたゴーディ、彼はジュープと拳を合わせようとした瞬間に射殺されてしまう。

ジュープはこの時、恐怖に負けて拳を出せなかったことに後悔の念を抱いていたのかもしれない。それと同時に種を越えた友情が成立すると思っていたのではないだろうか。だからこそGジャンを飼いならすという普通では考えられないような行動に出たのかもしれない。

ジュープはこの事件を回想するときに「美しい」という表現を用いている。もしかしたら畏敬の念を抱いていたのかもしれない。

これまでも考察好きを夢中にさせてきたジョーダン・ピールだけに今作も劇中のいたる所に考察の余地をひそませている。最も印象的なのはゴーディの惨劇が行われている時にジュープが目にする直立している靴である。

これが何を指し示しているのか?ネットなどを見ても、この場面についての考察は人それぞれだが、筆者はこのゴーディの事件とGジャンによる騒動の類似性に目を向けたい。

まず、靴があのように直立することは通常ない。この時点で映画の題名にもなっている「NOPE=ありえない」を表しているともいえる。靴のつま先が上を向いているということにも注目して欲しい。

下の映画のポスターからも分かる通り、劇中の登場人物は全員上を見上げている。これはGジャンという「脅威」を人類が見上げているという構図になっているが、ゴーディによる惨劇の時もジュープが机の下に隠れゴーディを見上げる構図になっているという奇妙な一致をしている。

上述したナホム書の一節に例えるなら、脅威は頭上からやってくるということを指しているようにも見える。靴以外にも奇妙な類似性を感じられる部分がある、それがスタジオ内で破裂する風船の存在だ。

スタジオ内でコーディの惨劇が行われてる最中何度も「バン!」という破裂音がしている。カメラが移動するにつれ、スタジオ内で浮いている風船が破裂している音だと分かる。この場面、何かと似てないだろうか?Gジャンの最期と重なっているのだ。ゴーディとGジャン、どちらも自分たちを見てきた者に逆襲をするが、最期は同じような末路を辿る。この一連の行動の奇妙な一致にも注目すべきだろう。

Gジャンとゴーディ、両者が「見られているモノたちによる見ているモノへの逆襲」となっているのに対し、OJたちの行動は、「見られなかったモノたちによる見ないモノたちへの逆襲」という対比になっている点も面白い。

ところで、この映画の感想を調べると「不思議な映画、変な映画」という感想をよく見かける。筆者もそう思うがちょっと待って欲しい。ジョーダン・ピールという人物はもともと映画的ハッタリをかますのが上手い監督なんだ。

過去作の『ゲット・アウト』にしろ『アス』にしろ、実際は『NOPE』に負けず劣らずのトンデモ作品だと思う(特に『アス』を鑑賞した時はラストのオチでズッコケそうになった)。だが、この2作品は、作品内の社会へのメッセージ性も注目されたために、そうしたトンデモ感が前面に出てこなかっただけなのだ。

どちらの作品も面白いと思うし凄いとも思うけど、雰囲気で持っていってる感あるよね?

今作もメッセージ性は強い作品なのだが、今作に限って言えば「奇妙さ」がメッセージ性を上回っているため、変な映画という印象になりがちなのではないかと思う。

後、本作は本当に映像が素晴らしいということも述べておきたい。元々、本作は夏休み向けの大作映画として製作されたという経緯もあってが、映像も壮大。撮影を担当したのはクリストファー・ノーラン監督の『ダンケルク』、『TENET』などで知られるホイテ・ヴァン・ホイテン。

この『AKIRA』オマージュはテンション上がるし、Gジャンの造形に「エヴァンゲリオン」が参考にされてる点にも注目!

この方が撮影で関わってる作品は大体傑作(ノーラン以外だと『her』や『ぼくのエリ』などがある)なのだが、今作もご多分に漏れず傑作となっている。

今作は映像が本当に豊潤!今作の奇妙さが社会性を上回っている理由の一つはこの圧巻の映像美にある。映像のもつ説得力が理屈とかそういったものを吞み込んでしまっているのだ。この映画をIMAXで見ることができて本当に良かった。

ということで『NOPE』はジョーダン・ピールの作品の中で一番好きな作品だった。こうした大作を経て次回作がどうなるのか、どこへ向かうのか、早くも気になってしまう。

※前述したゴーディのもとになったチンパンジーのトラビスの事件のWikiまとめ。かなり凄惨な事件。チンパンジーの事件って日本もそうだけど、定期的にニュースになってるよね。

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