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日本の教育に新しい選択肢を街に根ざした「居住型教育施設」開業に向けた二人の挑戦

小田急の再開発によって生まれた「下北線路街」と居住型教育施設「SHIMOKITA COLLEGE」

土地に根付いた商店から若者に人気の個人店舗まで、個性的なお店と人々で賑わう東京・下北沢。小田急線の地下化によりできた土地に、個人の商いを応援する長屋や温泉旅館、保育園などが軒を連ねる「下北線路街」が誕生。その一角に、2020年12月、レジデンシャル・カレッジ「SHIMOKITA COLLEGE」がオープンした。
レジデンシャル・カレッジ(居住型教育施設)を聞き馴染みのある言葉に言い換えると、学生寮が近しいだろう。ただし、学生寮のように特定の学校や教育機関に紐づく教育寮ではない。居住者は多様で、日本や海外の大学に通う学生から若手社会人までが、暮らしの中でお互いから学び合うことを目的に生活している。

SHIMOKITA COLLEGE2階のラウンジスペース。ゲストも訪問できるスペースとなっている。

日本の教育の新たな選択肢として産声を上げたレジデンシャル・カレッジプロジェクトは、どのような経緯で、どんな思いをもってつくりあげたのだろうか。プロジェクトのキーマンHLAB 代表理事小林さんと小田急電鉄生活創造事業本部 開発推進部課長橋本さんのお二人にお話を伺った。


「憧れを現実に」
多様性の中での学びが開いた起業家の志


小林さんの原体験は、とある先輩との出会いだった。中学生の時に父の仕事に付いてイギリスのケンブリッジ大学を訪れ、「こんなハリーポッターみたいな場所があるんだ!かっこいい!」と感銘を受けた。この経験がきっかけとなり、外交官という職業への憧れを抱くようになる。

高校へ進学した後も、留学が頭をちらついてはいた。しかし、物怖じしない性格の小林さんでさえ、留学には二の足を踏んでいた。転機となったのは、海外留学から帰ってきた先輩との何気ない会話だった。小林さんが当時在学していた高校では、在学中に海外留学に行く人はかなり珍しかった。単刀直入に「留学は怖かった?」と聞くと、「怖かったけど、めっちゃ楽しかったよ!」と言われ、その一言が後押しとなって留学を決めた。インターネットで調べたどんな情報よりも、権威ある大人からのアドバイスよりも、身近な、ほんの少しだけ先をいく先輩の一言が背中を押したのだ。

1年間のアメリカ留学から帰ると周りは受験モードだった。小林さんは、受験に必要な学習量を想像した時に、受験勉強をする時間もなさそうだと開き直り、TOEFLとSAT(米国の大学進学希望者を対象とした共通試験)を受験。すると、アメリカ上位大学のボーダーに届く点数だったことから、勝手が分からない中でアメリカの大学を受験することを決めた。最終的に、留学の機会が多く家からも近いために同時並行で準備を進めていたという一橋大学と、世界最高峰大学のひとつであるハーバード大学からの合格通知を受け取った。

2009年4月からの半年間は、一橋大学で過ごした。それまでも一橋大学のすぐ裏にある中高一貫校に通っていた小林さんは、とある事実に気づく。
「大学に入学すると、出会う人の質がこれまでとはがらっと変わったんです。僕の場合、高校と大学とでは物理的な距離はあまり変わっていないのに、壁ひとつ隔てたところにこんな世界が広がっていたのか、と衝撃を受けました。」

2009年9月、レジデンシャルカレッジ構想の原点となるハーバード大学での寮生活がはじまった。マイクロソフトやフェイスブックがハーバード大学の学生寮での出会いから生まれたという逸話もあるように、寮のあちこちに接点を増やすような対話がはじまる仕組みが散りばめられている。

「寮の入り口から自室にいくまでに、必ず地下1階の食堂を通らなければならない設計になっているんです。そのおかげで、英語で話すの面倒臭いな、部屋でユーチューブでも見ようかなと思ってしまう自分でさえ、なぜか食堂で話してしまっているんですよね。」
人は、ストレスやコストのかかる行為をなるべく避けたがる。「交流をしなければ」と意気込むとなかなか外へ出向けないこともあるが、食事は日々の中で必ず行う行為であるため、自然と足が向く。


ハーバード大学卒業式にて、寮監と仲間との一枚

こうして生まれた寮の生活の中での対話には、目的やアジェンダがない。各々が日々感じている問題意識や志につながる芽を共有していく。
「違和感を感じていた教育環境について話をしていくうちに、アメリカでも日本でも、根底には共通する構造的な課題があるのではないかということに気づきはじめました。まわりにどんな人がいて、どんな価値観をもつコミュニティの中にいるのかで、見える世界や取れる選択肢が規定されてしまうんですよね。」

その後も、日米で様々なコミュニティに出向いては仲間と問題意識やビジョンを共有し続けてきた小林さんは、問題意識をより明確に抱くようになる。地方からの進学、偏差値至上主義の中での進路選択、家庭環境など、それぞれが生きてきた環境によって見える世界が規定され、自然と進学やキャリアの可能性は制限されがちだ。このように、私たちの身の回りには目に見えない多くの壁が存在し、アクセスできる世界が広がるほどの出会いは限られている。
「価値判断の基準がひとつで同質性の高いコミュニティの中にいると、自分とちがう背景をもつ人と対話する力がなかなか育たない。どんどん複雑さが増していく社会の中で、人とのちがい、多様性を力に変える能力を育てることが課題だと思うんです。

この問題を解くためには、ハーバード大学で経験したような、「多様な人を集めるアドミッションズ」と、「寮生活の中でお互いから学び合えるような仕組み」をデザインすることが有効なのではないか。その仮説を立てた上で、実現するための手段として一歩先を行く先輩や様々な背景から集まる同期などの身近な存在から学ぶ「レジデンシャル・カレッジ」という構想も膨らんでいった。そして2011年、第一歩として日本各地で一週間のサマースクール事業を中心に展開するHLABを立ち上げた。


のしかかる重圧と責任
それでも描いた理想に向かって進み続ける

ハーバード大学卒業後、恩師から言われた「君が君として、世のため人のためになる選択をしなさい。」という言葉を胸に、HLABを法人化し、続けていくことを決意した。
とはいえ、当時の仲間のほとんどが企業で働きながらHLABにも関わっている状況だった。「10年後、20年後に、今よりも成長した彼らと一緒なら、きっともっと面白いことができる。そのための『砂場』をとっておこう。」仲間とHLAB立ち上げ当時から思い描いていたワクワクするアイデアを信じ、レジデンシャル・カレッジの立ち上げに着手し始めた。


0期生入学式にて、カレッジ生に向けてお話する 小林さん

小林さんにとって、起業はもちろん不動産業界との事業も初めての連続で、いくつもの困難が待ち受けていた。大手ディベロッパーに企画を持ち込みコンペで競り負けたことも、仲間が離れることでオフィスが暗い雰囲気に包まれたこともあった。そして、不動産経営のスパンの長さや数億円単位でお金を動かす責任と葛藤から体調を崩した日々もあったが、それでも行動し続けた。

2016年には、レジデンシャル・カレッジのプロトタイプである学生寮「The HOUSE by HLAB」をオープン。さらには山梨学院大学の学生寮や湘南台の学生寮のプロジェクトのソフト面の設計に関わるなどして、徐々に不動産運営の知見を深めていった。「話を聞いて、実際に手を動かしていくうちに、だんだんと不動産業界の人たちがどのような言語で物事を考えるのかが見えてきました。」
そして、「SHIMOKITA COLLEGE」プロジェクトを共同で運営することになる三社のうちの一つ、UDS株式会社が運営しているシェアハウスの内見に行ったことがきっかけとなり、グループ会社の小田急電鉄橋本さんに出会った。こうして、仲間とのワクワクする未来を想像しながら広げた「砂場」から、一掴みの砂金を手に入れたのだ。
「違う言語・文化の人の橋渡しをして、同じ方向を向かせ、社会的価値を生み出したい。」外交官を志した少年時代から、変わらぬ志を胸に、SHIMOKITA COLLEGEプロジェクトへと挑む。


あまのじゃくでもいい
未来に誇れるまちづくりを

「みんながやりたがらないことで、自由におもしろいことやりたい。あまのじゃくなのかもしれませんね。」と笑う小田急電鉄の橋本さん。
大学の建築科でまちづくりを学び、小田急電鉄の鉄道部門を経て、現部署で社宅の再生プロジェクト「ホシノタニ団地」など沿線各地の案件を担当してきた。
「2013年ごろ、小田急線沿線の座間駅で駅の真横にあった社宅を再生するプロジェクトに関わっていました。座間駅は沿線でいちばん賃料が低く建物自体も築四十五年ほど経っているため、更地にしてしまおうという声も大きくて、誰も手をつけたがらなかったんです。」

橋本さんは、小さい頃から何にでも疑問をもつ子どもだった。ホシノタニ団地に関しても、「なんで壊そうなんて言うんだろう。せっかくまだまだ現役の建物が建っているのに。」みんなが壊してしまおうと言っている中で逆の発想をする「あまのじゃく」な性格から、プロジェクトがはじまった。

橋本さんがまず行ったことは、とにかく街の人の声を聞くことだった。座間市の市役所に訪れて話を聞くと、保育課がすごく忙しそうだということが見えてきた。さらに調査を進めていくと、座間駅周辺は「賃金が低く共働き世帯の割合が大きいため、たくさんの保育園数が必要だ」という事実に行き着いた。これをヒントに次は子育てママに話を聞いていくと、「子どもが遊べる場所がない」「行政を頼りたいけれど、子育て支援センターは駅から遠くてなかなか通えない」という生の声も受け取った。閑静な住宅街は、実は子育てがしづらい構造になってしまっていたのだ。

「どうせなら、ネガティブなイメージをポジティブなイメージに変えたい。」その想いから行動を開始した。団地に子育て支援センターを誘致し、子どもが自由に遊びまわれる公園をつくり、地域の人が誰でも使って交流できる畑をつくった。こうしてホシノタニ団地は、親子の笑い声が絶えない場となり、座間駅周辺は「子育てしやすい街」へと変貌した。

ホシノタニ団地のイメージ。HPより。

分かりやすく周囲からの賛成を得られないプロジェクトでも、橋本さんはやり切る。その根底には、「仕事は未来の子どもへのリレーである」という哲学があった。
「自分は過去にいきた人々が働いてつくってくれた財産を享受してきた。自分が次の世代の子どもたちのために働く番だ。これからの未来を生きる子どもたちに恥ずかしくない仕事をしたいし、喜んでもらいたい。」その哲学を貫くため、たくさんの本から学び、たくさんの人の声を聞いたのだ。

ホシノタニ団地を筆頭に、これまで関わってきたもののほとんどは正解がないプロジェクトだった。しかし、社内では「他の会社がやっているから」「今ある事業形態の延長線で」などの理由から本質的でない意思決定がなされる場合もあった。そして、「自分で課題を発見し、解決策をつくっていける人を育てるためにはどうしたらいいのだろうか。もしかして、今あるまちづくりの課題を解決するためには、今までの教育のあり方を大きく変えなければならないのではないか。」という問いが生まれ、教育ビジネスに対する関心が大きくなっていった。その後、小田急線沿線の湘南台駅にて学生寮のプロジェクトにも挑戦した。


SHIMOKITA COLLEGE 0期生入学式にて、下北線路街についてお話する橋本さん

こう着状態の再開発プロジェクト
待っていたのは住民同士の怒鳴り合い

2017年に橋本さんが下北沢再開発プロジェクトに着任した際、これまでの経緯もあり再開発計画はこう着状態で、社内でも「やりづらい街」という空気感が漂っていた。橋本さんは、「街のことを知らないと何も始まらない」ということで、半年間はひたすら街について調べインプットし続けた。地図を持ちながら歩き、住宅や商業施設など、色を塗って分けた。橋本さんは、まちづくりプロジェクトに取り組む際に最初から何をするか決めることはない。まずは街にどっぷり浸かってひたすら調べ、自分が住んでいたら何が必要かを考える。そうすると街が好きになって、街のために何をしたらいいかを考えられるようになる。

草の根の調査から下北沢独自の姿が浮かび上がってきた。個性的な店が軒を連ねる商店街とそこに集う人々の様子から、表面上は「若者の街」との呼び声が高い下北沢。しかし、その本来の姿は代沢・代田・北沢の三地域から成る「おじいちゃん・おばあちゃんの街」であるということを発見した。そして、彼らはひとりひとりが自分の街に対する像をもっている。決してまちづくりについて決して文句だけを言う評論家にはならず、自分で企画をもってくる。図面やCGをつくったり、イベントを自分で興したりする人も珍しくない。

その熱量の高さゆえに、意見の食い違いや衝突は避けられない。「はじめて話し合いの場に行った時、住民の方々が怒鳴り合いをしていて。面食らいましたね。ただ、その後はみんなで楽しくお酒を飲み交わすんです。意見をぶつけ合ってもお互いに人格の否定はしない。おもしろいな、勉強になるなと思いましたね。」異様なまでのまちづくりへの意識の高さをもつ住民たちの情熱に触れ、尊敬の気持ちが高まっていった。

「世田谷代田駅近辺の住民の方だと、『下北沢』という呼称で括られることには違和感がある、という人も多いんです。ただ、不思議なことにカタカナの『シモキタ』だとそうはならない。『それならいいね』ということで共通言語になっている。地域性ももちろんですが、ひとりひとりが思い描く個別の像を許容する表現が良かったのだと思います。」

そんな住民たちとの関わりの中で橋本さんが見出した下北沢地域の再開発のテーマは、「みんなのやりたい、ひとりひとりの『シモキタ』を邪魔しないで、応援していく」という「支援型開発」だった。

複数の個人店舗が軒を連ねるBONUS TRUCK


二人の共感の接点を胸に、
プロジェクトを「発酵」させる

2017年、教育への想いと実践を重ねた小林さんと、街の人の声を聞き課題を魅力に転換するまちづくりを実践してきた橋本さんが出会った。

「小林さんから提案があったとき、はじめは全くもって何を言っているのか分からなかったんですよね。たしかに、人と人とが交流する場は大事だと思っていましたが、それをどう教育プログラム化していくんだろう、という部分のイメージが湧かなかったんです。でも、小林さんの目がとってもキラキラしていて、直感的に『この人と組んだらいけるだろうな』という確信を感じました。

多様な背景の他者と対話をし、プロジェクトを実践してきた二人が目的を合致させることは容易だった。その後、各社でどの範囲で責任をもつのか、スケジュールはどうするのか、どのステークホルダーとどんな調整をするのか。小林さんの情熱と思考力、橋本さんの経験と調整力でトントン拍子に進んでいった。

2020年12月5日、これからSHIMOKITA  COLLEGEをつくっていく0期生の入学式が行われた。そこでは、「ほんとにできちゃった!っていう感覚ですよね。」と笑顔で会話をする二人の姿があった。
 
株式会社UDSが施工した建物は、ゆったりとくつろげる調度品が揃えられ、共用部を通らないと自室にいけない作りになっている。オープンから1ヶ月がたった今、入居した学生や若手社会人の方々によってさまざまなテーマについての対話がなされ、コロナ禍でも絶え間ない交流が生まれ続けている。


2階のラウンジは入居者の交流の場となっている

建物は完成したものの、完成度は6〜7割だという。「残りの3〜4割は、住んでいるみなさんにつくっていってほしいです。おじさんが考えるより、若い人たちに考えてもらったほうが、社会が良くなっていきそうだなって。」橋本さんは、完成した建物と入学した若者たちを見て話す。「SHIMOKITACOLLEGEに集った若者たちがシモキタという街と混ざったときに何が起こるかは、まだ想像できなくて。ただ私は、今から起こる関わり合いって「発酵」に似ていると思うんです。人は菌みたいなもので、菌と菌が混ざると、美味しいものになったり、ダメになってしまったりする。これまでも人は発酵していいものを受け継いてきた。より多様な他者と関わって、菌と菌が混ざり合う仕掛けをつくっていきたいですね。

小林さんも、これからのカレッジの発展に期待を膨らませる。「コロナ禍の中での共同生活ということで苦しいスタートにはなったかもしれません。ただ、この状況が落ち着いたらカレッジ生のみんなにはもっと地域に飛び出していってほしいし、興味の赴くままにたくさんのチャレンジをしてほしい。みんながこのカレッジをどうつくっていくのかが楽しみですね。そのためのサポートをHLABとして全力でしていきたいと思っています。」

  SHIMOKITA COLLEGEからどんな「発酵」が生まれるのか。カレッジ生のひとりとして、ワクワクが止まらない。

※橋本さん・小林さんの所属は2020年12月時点のものです。

取材・執筆 江口未沙(SHIMOKITA COLLEGE 0期生)

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