【文豪を朗読】中島敦『山月記』  ナレーション七味春五郎  発行元丸竹書房

山月記は、中島のデビュー作であり、教科書に掲載されるなど、中島作品でも知名度が高い。教員時代に書かれており、当時人気のあった中島の文筆活動を助ける生徒もあり、山月記の清書などを行っていたというエピソードもある。
 山月記の主人公李徴には、中島自身が投影されていると言われている。

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中島敦は、1909年(明治42年)に生まれた。父母は学校の教員であり、中島一家は、祖父であり、儒学者でもあった中島撫山の影響から、叔父らもふくめて儒学や漢文に親しむ環境にあった(もっとも中島は英語力も高かった)。

一方で、転校を繰り返したこと、父の再婚相手とも折り合いが悪かったことなどが、中島の幼少期に影をおとすことになった。
東京帝国大学文学部国文学科に入学するも、就職難の壁にあたり、祖父の門下生のつてを頼って、教員の道に進んでいる。中島は多趣味な男で、生徒からも人気があったらしい。
中島は教員時代も旺盛な執筆活動を行ったが、1940年頃から喘息がひどくなり、教員を続けられなくなってしまう。中島は、療養もかねて南洋庁に就職し、パラオにむかった。
ところが、パラオは雨が多く、中島の喘息は悪化してしまう。現地人に、日本の教育をおしつける仕事にも熱意をもてず、二年後には帰国を申し出ている。が、日本を離れていたこの期間に、中島の作品は文芸界で注目を浴びだしていたのである。
喘息と気管支カタルに苦しみながらも、光と風と夢を発表。芥川賞候補となる。落選こそしたが、注目をあびた中島には、仕事がまいこむようになり、ついに念願の専業作家の路に踏み出す。だが、わずか数ヶ月のちには、中島を苦しめ続けた持病は、ついにその命を奪ってしまった。

 中島敦、33歳。最後の言葉は、
「書きたい、書きたい」
「俺の頭の中のものを、みんな吐き出してしまひたい」
 であったといわれている。

 中島敦の文学的評価はその死語に高まることになるが、本人がその名声を聴くことはついになかった。
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