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新撰組八犬伝 その五

○   十一

 目を開くと、彼は暗闇の中に立っていた。いまだ宝玉を握りしめ、その輝きだけが、濃い闇を払っていた。
 赤子は、いない。
 雨もなく、痛みもなく、音すらもしなかった。
 俺は死んだのか、と仁右衛門は思った。
 身動きすると、その闇はいやに重く、体にまとわりついてきた。まるで、闇という名の海に、沈んでいるかのようでもあった。
 サァ……と何かが、体の脇を流れていく。闇の中に、何かがある。それが巨大な顔だと気づいたとき、はじめてその顔が自分に向けて言葉を発していると知った。
「何者だ!」
 と仁右衛門は言ったが、彼の声はたちまち闇に吸い取られていく。
 巨顔の声は、倭語のようでいて、そうではなかった。聞き取ることができない。
 そのとき、右の手のなかで、宝玉が再びくるりと一回りした。胸元に差し上げると、珠の中央にジワジワと墨が浮かび、枝分かれをし、一個の文字と化していく。
「仁……?」
 それは、犬江新兵衛の所持したという、宝玉の文字に他ならない。
 仁右衛門は、右の肩に焼きごてを当てられたような痛みを感じた。「どういうことだ。俺に何をさせようというのだ」
 仁右衛門は、左手で肩をおさえながら言った。
声は聞き取れぬほどの早口になり、音量を上げ、仁右衛門をとりまいた。
「やめろ」
 声は、仁右衛門の体を侵食していく。皮膚を通り、肉を突き抜け、骨の髄まで染み渡る。
仁右衛門は闇に浮かんで、ついに方角すらわからなくなった。天地は消え、浮いているのか、落ちているのかもわからぬ。
その中で、赤子の声だけがあった。彼は再び意識をなくしながら、その泣き声に向かって手を伸ばした。

○   十二

 仁右衛門は、叫びを上げて、目を覚ました。
 ザーザーと、雨音が耳によみがえる。彼が抱いているのは、声の主である赤子である。
「ううっ」
 と仁右衛門は突っ伏する。激痛が、身の奥にあった。内臓を引き裂かれるような痛みである。体の奥に埋まった銃の礫が、ズリズリとひとりでに動いて、出てこようとしているのだ。
「うああっ」
 肉を潰してうごめく、弾丸の痛みに堪えかね、仁右衛門は赤子を抱いたまま、のたうち回った。不思議なことに、赤子はもう泣いてはいない。まどろむような半眼を向け、かすかに笑んでいるようだ。
 仁右衛門は膝をついて起き上がると、痛みに耐えかね、袂を開いた。
 血は残っていた。が、大石に受けた刀傷が、みるみるうちに塞がり、赤々とした肉腫の皮が、胸元に一筋の川のように流れる。そして、腹部にポッカリあいた銃傷からは、ボロリとひしゃげた弾がにじり出てきた。傷口は弾を押し出すと、瞬く間にふさがっていく。
「なんだ、これは……」
 荒い息をつき、呆然と輝く珠を見る。慌てて確かめると、宝玉の中央には、いまだ仁の文字が、黒々と浮かび上がっていた。
「お前の仕業か……」
 傷は塞がったが、失った血はどうにもならぬようだ。血の気が落ちているせいか、激しく頭が痛む。
だが――
「体が動く。本当に傷がふさがったのか――」
 信じられぬことだが、三つの弾は、すべて身のうちより取り除かれていた。刀を振るのに、何の支障もなさそうだ。
 だが――
「これでは、馬琴の戯作そのままではないか」
 仁右衛門は、赤子を抱いて立ち上がる。
「貴様、珠を奪いおったか!」
 大石がわめいた。
 仁右衛門は、樫の根元にねむる老人に、やおら目をやった。
(あの老人は本物か? では、この子も――)
 伏姫なのか――?
 信じられぬ話だが。
なんの力かはしらない。が、傷が治ったのは事実だ。
 仁右衛門に、迷い、思いを巡らす時間はなかった。子玉しか持たないちゅだい法師では、大石の敵となりえていない。
 が、鍬次郎は一刀流の使い手である。
「刀がいる」
 仁右衛門は、急いで宝玉と伏姫を腹に隠した。

○   十三

「仁右衛門!」
 と大石がわめく。
「宝玉をよこせ。それはわしのものだ!」
「逃げろ、仁右衛門!」
 と言いつ、ちゅ大法師は、大石の強力に屈して、膝を突いている。
 仁右衛門は無手である。
 争う二人にかまわず、樫の根元に走った。そこに、犬江新兵衛の亡骸があった。小柄な老人である。旅装を解きもしていない。入府してすぐに、大石と遭遇したのだろう。
 犬江新兵衛は、右の肩口から腹にかけてを一刀のもとに断ち割られている。薩腹の示現流でも、こうはいかない。
「ごめん」
 と仁右衛門は断り、新兵衛が右手に握る愛刀を、指をへし曲げるようにして無理矢理にとった――とたんである。
 その刀はたった今、命を得たように静かな光を放ち、あまつさえ、かすかな冷気と水気を漂わせ始めた。
 これは、と仁右衛門はうめいた。
 よもや、霊剣村雨か――?
 村雨丸といえば、八犬士の持ち物である。
 ドサッと音がして、泥がはねとんだ。足下に、ちゅ大法師の巨体が落ちてきた。
 ちゅ大法師は倒れこんだまま、錫杖を突きつけた。
風がコオッと吹いて、雨と三人の衣服を払う。
 仁右衛門は瞠目した。大石はもう、人相まで変わっている。いや、人相という言葉では足りないだろう。人外、である。目は赤く輝き、大石が首を振るたびに、その赤い残像が残った。口はさけ、白煙を吹き出している。体毛がみっしりと生え、その脂が雨水をはじいていた。刀を握るその指は、ぐわりと爪が伸び、まるで五本の小刀である。
 人、というよりも、狼に近い。
「あれは、なんだ?」
 と仁右衛門はちゅ大法師にささやいた。
「お主」法師が、チラリと仁右衛門の懐をみる。「それは、仁の珠か?」
 信じられぬ、と言いたげに首を戻す。
「お主、里見一族の血筋の者なのか。まさか……」
 仁右衛門は否定しようとしたが、奥村家は、身分こそ御家人だが、古い家柄である。どこで、どの血が混じっていようかなど、わかるはずもない。
 大石が、犬のように喉を鳴らし、ヒタヒタと迫ってく。骨格すらも変わったのか、膝を深く折り曲げ、人を遠く離れた動きである。自身も一流の剣客である仁右衛門は、大石の身ごなしを見て、逃げることも容易ならぬと判断した。しかし――
 仁の珠は、彼の傷を治しただけではないらしい。今、過去味わったことがないぐらい、体の奥深くから、力が湧き出してくるのを感じる。剣術の修行を通して、これこそが極意、という感覚を得たことはあったが、体中に、別の動力を得たような心持ちである。
 が、油断はできない。体力は、著しく減少している。早めに決着をつけなければ――
「なぜ目玉が光っている」
「邪神眼だ。まともに見るな」とちゅ大法師もささやきかえす。「お主、名は?」
「徳川家(とくせんけ)浪人。奥村仁右衛門」
「傷は治ったか?」
 仁右衛門は立ち上がり、スッと、村雨を垂らす。村雨は雨気を受け、さらなる冷気を立ち上らせている。
 彼がうなずくと、法師はやや満足そうに肯首(こうしゅ)した。
「まだ、宝玉の力を使いこなせまい。伏姫を連れて逃げろ、と言いたいところだが」ちゅ大が唾を飲む。「奴も新兵衛殿との戦いで、傷を得ておる。今、仕留めるべきだ」
「お主は、本物の金椀大輔なのか?」
 と仁右衛門はささやいた。ちゅ大法師が、チラリと彼をにらむ。
「馬琴のことは、今は忘れろ。奴をどうにかせねば……」
 そのとき、首をグルリグルリと回しながら、こちらに迫っていた大石が、止まった。喉を鳴らすのをやめ、その場で二度三度と腰を沈ませる。
 さらに深く沈んだかと思うと、鞠がはねるように跳躍をして迫った。
「伏姫を守れ!」
 ちゅ大法師が滑走したが、大石は鋭く左にはね飛んで、かと思うと、急激に角度を変えて、仁右衛門に迫った。
 仁右衛門は、下段にあった刀をさっと振り上げた。大石の一刀を受け止めはしたが、大石はなんと宙に浮いたまま、全体重を乗せて推してくる。
 重い――
「貴様、本物の壬生狼になりさがったか!」
 仁右衛門が刀を振り抜く。村雨丸は、周囲の雨粒を凍らせながら、鍬次郎の体をはねのける。
「本物の犬士になりおったか――」
 と大石は吐き捨てる。村雨丸は、真の犬士にしか扱えないのである。その刀は大きく欠け、表面に多量の霜をつけている。
 仁右衛門とちゅ大法師は、別の角度からジワジワと大石に迫った。
 大石が、法師に向かって、息を吐くと、その息は真っ黒な毒霧にかわった。
ちゅ大法師はたまらず膝を折る。常人なら、即死したはずだが、百の子玉をもつ法師は耐えた。
 仁右衛門は刀を下段に預けたまま、飛ぶように距離をつめた。まるで、何者かが回しているのかと思うほど足腰が軽い。
 鍬次郎が直前で顎を閉じた。
 仁右衛門もまた一息で距離をつめ、上段に跳ね上げた村雨丸を真一文字に振り落とす。
鍬次郎が真っ向からうける、狼と見紛う鼻より、ブフウと毒霧を吹き、食い止めた。
 仁右衛門は、中心に重みを集めると、粘りをかけるようにして、村雨丸に身を預けていく。
 祟り神を身に宿す大石も、その重みに屈服して、腰を下げた。
 村雨丸は、大石の刀に切れこんで、その刀身を断ち割り始める。
「おのれえ」
 大石がのろいの声を上げると同時に、刀は真っ二つに折れ飛び、村雨丸がその胸を切り裂いた。
 大石は、数歩よろめき下がる。胸元の傷をおさえ、
「村雨丸さえなければ」
 とうめいた。
 だが、仁右衛門もまた追わない。伏姫が、胸元で叫喚していたからだ。
(毒をすったか)
 仁右衛門にも影響はあった。が、仁の珠のおかげか、毒はたちまち体内で中和していく。
 大石が、刀を拾った。先刻、スナイドル銃とともに、仁右衛門が落としていたものである。
 倒れていたちゅ大法師が、かすむ目を瞬かせながら、
「義の珠を奪え! あれは近藤殿の物だ!」
「なんだと?」
 仁右衛門は伏姫をなだめつ、じわりと大石との距離を詰める。
「貴様、近藤さんを裏切ったのか」
「裏切っただと!」大石が激怒した。その語調には強い恨みがある。「俺をだましたのは、あ奴らではないか。国のためと、祟り神と戦い、穢れのみは俺たちに負わせた! 結果をみろ、幕臣になって何が残った! 今では、国にすら追われておるではないか!」
 仁右衛門とちゅ大法師は動けなかった。大石の声に何者かの胴張り声が重なった。それは、裂けた大地の奥深くからとどろいたような、力強くも不吉な声であった。
「いかん、祟り神に飲まれおった」
 ちゅ大法師は錫杖をズブリと地にさし、指をからませ次々と印を結びながら、呪文を唱えていく。 

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