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「私のたった一つの望み」

前回のnoteからひと月以上経つのをみて、外的要因を探すばかりではなくなった最近、自分の中にある"もの"と向き合ったときのことを綴ります。

 must人間から脱皮して出てきたもの

1本目のnoteで、感じたものを愛でることについて書いた。それから自分の内で、ある変化があった。

何が起きたのかといえば、「~しなくちゃいけない」とmustベースで生きてきた自分が、少しそうでなくなってきたことに。
いやなことが起きれば体が何かしらの反応を出して拒絶するようになった。
まるで体が”言うことをきいている”

以前はここに思考が必ず入っていた。
感じて、思考して、加工して、形にする。
常にこのステップ。

mustのベースがあるから、加工してしまう。
つまり「~しなくちゃいけない」は、その制約があるからこそ方向に特化できる反面、縛り付けることにもなる。

でも、これまで思考して、加工することに重きを割いていたところを、感じること、感じたことを噛みしめるようになると、自分の内にある”もの”を少し認知できるようになってきた気がする。

楽しいと感じる"もの"
愛が足りないと感じる"もの"

「私のたったひとつの望み」

最近になって、死ぬまでに必ずしたいことができた。

然るべきときに通称「貴婦人と一角獣」と呼ばれるタペストリーの前に立つこと。
このタペストリー、全部で6枚連作になっていて、その内5枚は、人の「視覚」「聴覚」「味覚」「嗅覚」「触覚」の寓意を表している。

そして6枚目。

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タイトルは「私のたったひとつの望み」
五感のアレゴリーだとされていて、「愛」や「理解」と解釈されるのが多いらしい。

これを目の前にしたときに、自分の内にある"もの"がどう振る舞うのか。

それを感じる日を楽しみにしながら、自分の内にある"もの"が、あるようにそのままに振舞っていくことを望む。

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