正直なところ、希望がある時が一番きついかもしれないー米澤穂信『黒牢城』

本作は信長に包囲された有岡城(クローズドサークル!)の城主・荒木村重と、地下に幽閉された天才・黒田官兵衛との心理戦である。

構図としては安楽椅子探偵であり、この場合は探偵に的確な情報を持ってくるワトソン役が重要だ。荒木村重は決して愚将ではない。堅固な城が破られる時は、籠る側の心が崩れた時であることを知っている。城内に漂う不安は一掃しなければならない。事件解決のための動機があり、能力も申し分ない。

方や官兵衛の側は、ハンニバル・レクター系の快楽殺人鬼でもない限り、村重に協力する義理はない。有岡城開城を箴言するための使者として信長側から派遣された以上、死は覚悟している。それが、生きて幽閉されているのだ。こんな屈辱は武士にとってありえない。
ということで、始めの方の官兵衛の協力する動機は、まさにレクターのごとく、謎そのものを楽しむ、或いはこんな簡単なことも分からない檻の外の人間を弄ぶ、そんな感じで表現されている。

ここで注意がいるのは、この小説は大半が村重視点であって、官兵衛の内面が不明になっていることだ。天才を表現するのは難しい。別の名が知れた天才と同列に並べるか(西の湯川秀樹、東の〇〇)、超常的な能力を披露するか(アフガニスタンにいましたね?)。いずれにしても、内面を見せない、ミステリアスな部分を残すことは必要だ。
僕らは史実として、官兵衛が長い幽閉の末に異形となりながらも生き延びたことは知っているけれど、この籠城のなか官兵衛と村重の間にどんなやりとりがあり、また官兵衛の内面がどう変化していったか、それは知らない。そう、幽閉されても内面は変化していく。希望から絶望へ。そしてさらに深い闇へ。

正直なところ、希望がある時が一番きついかもしれない。まだ間に合う、まだ望みはある、しかして檻の中からでは何もできない状態。映画『ES』のモデルになった実験でも、看守はより残忍に、囚人はより惨めな存在に貶められる。それが設定された役割ではなく現実なのだ。官兵衛は聡明だから、檻に閉じ込められ情報が遮断されていても、以前に得た情勢と、村重が地下に降りてくるタイミングから事態を察する。そうして、間に合わなかったと察する。

あ、この、地下に降りていくっていうのも象徴的だ。官兵衛は村重にとって、己の罪であると同時に希望でもある。生かしてやってるだろ、という、エゴを交えた希望。彼の抱く希望が、その後どうなるかが本作の読みどころで、すなわち本作では「希望」の位置づけが変わる。

希望は常に希望であるわけではない。長い永い月日は、終わりのない連続は、容易にそれを絶望に変える。デニーソヴィッチの収容所ものを読むと、配給される食べ物に期待するシーンがよく出てくるけれど、過度に期待はしていない。たいてい、期待を大きく下回るカチカチの黒パンと具がえげつないくらい皆無なスープだから。

村重が排除しようとしたのは、希望を侵食しようとする、不安である。けれどもこれは本当に不安なのか?何かが明らかになれば不安は消えるのか?

いやー、熱い心理戦であった。

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