飲み会の隅の方で生まれる好きという感情のままならなさ-『街の上で』

最大公約数の話題で盛り上がる飲み会が苦手だ。
喧騒と笑い声から外れた、飲み会の隅の方に、なんかこうもやもやっとした、人を好きになる感情がある気がしてならない。
リモート飲み会には隅がない。みんなフレームだ。
対面であることの、微妙な重力を持った空気感。

主人公の荒川青は恋人にフラれ傷心している。経営する下北沢の古着屋に来た女の子がちょっと俯いてなんかすると気になってしまう。そういう時期。目に見える異性がすべからく気になってしまう時期。そんな青のもとに、自主映画を作っている女性映画監督から「映画に出演してくれませんか?」と声をかけられることから始まる、青春群像である。

結論から言えば、何もない。
異性からのこうした依頼には、たいてい、なんもないのである。

人を好きになる感情の、グラデーションを、この映画はいろいろ描く。本当に好きになった時、他人にはそこに触れて欲しくない。好きになる手前部分、飲み会で盛り上がってイチャつく訳でもないけど家でダラダラ話している時間のかけがえなさ。好きだったものが終わる瞬間。

下北沢という文化の街自体は、再開発でどんどん景色を変えていく。景色とともにあったほのかな感情の想い出は、街の景観からは伺うことができない。だからこそこだわってしまう時がある。

古川琴音ちゃん演じるタナベさんは、青が映画出演に張り切ってがんばることを応援している。応援していた時、もう終わってしまったタナベさんの好きなものの欠片を見つけた。ある出来事が、物理的に別れるとかそんなことで、人が人を好きになる感情は終われないのだ。だからタナベさんは食い下がる。青の出演シーンをボツにした女性監督・タカハシに。自分の好きだったものを終わらせないために。

タカハシは、青も参加した飲み会で、自身の映画論をぶっている。信念、または信念手前のこだわりがあるのだ。彼女には。青はノイズだ。自主映画は大学の仲間たちで作られる。歳上の古着屋の店主である青は場違いである。客観的に見ると、なんでその飲み会行っちゃうかな〜という感じであるが、なんか分かる。たぶん、何らかの、薄ぼんやりした可能性に惹かれるのだ。

その飲み会で、青はイハなる女性と、隅の方で自己紹介する。なんとなく、本当に何気なく、気が合う。友だちになる。なんか知らんけどお互いに自分の核心に当たる過去を開示している。

話を戻す。何故、青の出演をカットしたか詰め寄るタナベに対し、タカハシはくどくどと自分の映画論で対抗する。好きという感情が、他人のエゴに消されて、ないものにされているようで、タナベは納得しない。
そこに、青の友だちである(と、イハはタナベに対し自己紹介する)イハがカットの理由を告げる。

「下手やからですね」

笑った。ぐうの音も出ない。厳然たる現実。
こうした厳然たる現実の前に、好きという感情は「え…」となるしかない。成田凌演じる朝ドラ俳優も「え…」となるシーンがある。是非観ていただきたい。

生の感情、「え…」を繰り返す、青春の街下北沢。なんか懐かしい気持ちになる映画である。

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