「お前にサンが救えるか?」についての考察ー『もののけ姫』

『もののけ姫』は『となりのトトロ』の前日譚だ。

タタラ(TATARA)

トトロ(TOTORO)

タタラ場は、森を切り拓き、鉄を作る場所だった。森を殺し人間の領域を拡大する。主人公のアシタカは動機なく動く人物だが、彼には曇りなき眼で真実をみる役割がある。あ、動機なくって言うのは、アシタカは一応は自分の呪われた腕を何とかするために冒険に出るわけだけれども、そもそもその呪いは祟り神を退治したことによる因果であって、彼自身もその運命を受け入れている。だから腕を何とかしようっていうより、神話上の人物のように、現世と異世界の架け橋になる立場だった。

さて、トトロは森に昔から棲んでる精霊である。もののけ姫においてはコダマや、森の猩々たちにあたるキャラクターだ。森の猩々たちはエボシ率いる人間に押されていて、人間を喰うことによって人間の位置を得ようとする。精霊が精霊でなくなろうとしている。サンは人間に捨てられた娘で、人間を憎んでいる。自分を守り育ててくれた森を失いたくないが、かなりじり貧である。森は森として人間と決戦をしようとする者(モロの一族とオッコトヌシ)、人間になろうとする者(猩々たち)とバラバラだ。

一方で、エボシの側も一枚岩ではない。エボシは近代合理主義が極まった人間である。目的のために、たとえ困難な決断であっても決然としている。みなが無事であるためには谷底に落ちていった者たちを見捨てるのも躊躇わない。そんなエボシは戦国前夜を生きる人間でもあって、サムライ達の侵攻を防ぐためにはより大きな力を持った側に鉄砲という武器をもって協力することもやむなしと考えている。自分が地獄に行こうとも。けれどもタタラ場という強力な武器は、サムライたちを引き寄せる。奪ってでも手に入れようとする。

というわけで、アシタカが彼の地にたどり着いた時、決戦は近かった。森か人か。どちらかが滅び、或いは両方が滅亡する戦いだ。

モロは自分たちに勝ち目がないことを恐らく分かっている。サンは自分の娘であるが、醜く哀れな人間の子でもある。可能性のことが頭をよぎる。この子には、別の道もあるのではないか?森の呪いをその身に受け、傷を負ったこの若者とならば…。アシタカから、「ともに生きることはできる」と言われ、つい出た山神の情だった。

そう、モロは全体として、人間に負けると分かっている。ただ、人間の頭領たるエボシの喉笛を噛みちぎることによって、彼女が象徴する近代合理主義に一泡吹かせたい。長年の付き合いであるオッコトヌシもそれは同じで、彼が連れてきた一族は言葉も危ういくらい小さく馬鹿になりかけていた(モロに反発する時ぶひぃーっと動物の鳴き声が混ざっていた)。

森と人間の戦いが始まり、オッコトヌシは祟り神になりかける。満身創痍で意識が混濁するなか、生き物でも人間でもない、死んだ戦士たちの皮を被った人間たちが現れたためだ。偽りの希望。生への執着。聡明だったオッコトヌシはサンを道連れに、この世を呪う祟り神になろうとしている。(悲しいことだ、一族から祟り神が出てしまった、という前言から、これは戦士として不名誉であることがわかる)

モロの二度目の、アシタカへの言葉。
お前にサンが救えるか?
モロはエボシを噛み殺すことによって、未来に呪いの可能性を遺そうとした。やめた。愛しい娘のために。別の可能性を遺すことにした。森と人がともに生きる道。

そうして、シシガミが倒れることによって、鉄を作るために伐採されてきた山は里山として再生する。エボシもまた戦うための腕を失うことによって、別の可能性に目を向ける。里山での、人と森の共存。

そうした可能性の先に、トトロがいる。

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