怪物は見られることを嫌う-『ナイトメア・アリー』

主人公のスタンは異形者が集まるカーニバルで読心術をマスターする。「自分には力があると勘違いするなよ」という警告を無視し、スタンは読心術を使って成り上がっていく。心理学者のリリス博士と出会い、さらに深みに…という感じの筋立て。

怪物は見られることを嫌う。フランケンシュタインがそうだし、オペラ座の怪人がそうだ。カーニバルにも獣人と呼ばれる怪物が見せ物になっている。鶏の生き血を飲む(カーニバル・祝祭だ!)、人の領域を外れたモノ。スタンは獣人に同情を寄せるが、読心術によって見る側についた彼には、見られるモノとしての怪物を救うことはない。

この映画には、見る・見られることに関する表現が多かった。それでいくと、スタンは常に見られていた。読心術を習った師匠から。母を食い殺したとされる赤ん坊のホルマリン漬けから。大切な人を守ろうとする屈強なボディーガードから。心理学者であるリリス博士から。

能力は暴走を始める。
スタンは見えないモノを見えると嘘を言い始める。幽霊ショーの開幕。アメリカは幽霊の国だ。インディアンたちから土地を奪ったという負い目から、黒人奴隷に対する差別から、ハリウッドという魔性の栄光から、つまるところ国家レベルで抱く不安から、幽霊はあらゆる所に存在するとされる。近くにいるからこそ、触れてはならないモノ。スタンは嘘に嘘を重ねていった結果、そこに行き着いた。

ギレルモ監督は過去作品に対するオマージュを多用する監督だ。リリス博士もまた、男性を魅了し堕としていくファム・ファタールである。彼女が読心術ショーでスタンを追い詰めた結果、スタンは禁忌である幽霊ショーに手を出した。飲まなかった酒も呑むようになる。人の意思は。人には理性というものがあり、意思がある限りそれやったらアカンやろ、のストッパーが働く。そのストッパーが外れ、それやったらアカンやろの領域を闊歩する存在を人は怪物と呼ぶ。

幽霊、ということでいえば、冒頭の焼ける家ね。
宗教的なことは分からないけれど、キリスト教圏において、死体を焼く行為は復活する身体をなくすことだから、魔女狩りとかそういう時にすることでしょう。よほど、その死体に対して負い目がある、もっと言えば不安がある時に、それをやる。幽霊はこちらから見えないから、見られている感覚を、増幅した不安は作り出す。

なんで怪物は見られることを嫌うのか。
実は、これは怪物に限らない。自我がある限り、人は見られるのは嫌いだ。
見られるのが好き、というのは、自我が肥大しているか(わたしを見て!)、見られる対象の器として何かを極めている(モデルとか)場合である。怪物は異形だ。異形だから怪物とも言える。その怪物にも自我があり、怪物を見ている我々は、いつ見られる側の怪物になるとも限らない。檻の内側と外側に区別はない。驕り、侮り、嘘を重ねていった先には、ペラペラの1ドル札と鶏の生き血が待っている。

モチーフ、ということで言えば、カーニバルにいたウサギは不思議の国のアリスだろう。まあ、スタンがついて行ったのは小人症の少佐であり、そこから何かズレてたけれど。

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