俺は部品だ。

『呪術廻戦』で主人公の虎杖が言う。「俺は部品だ」
一見して、主体性のない、気力も面白味もない言葉に見える。ただし。ただし、独りでできることってどれだけあるだろう?

これまた漫画であるが、『Dr.STONE』は少年科学冒険ロマンである。科学の本質は再現性にある。同じ手順でそれをこなせば、男子であろうが女子であろうが、同じ結果が出せる。想いは引き継がれる。巨人の肩にのる。大きなモノの一部であることを自覚した時、人としてのステージがたぶん一個上がる。

協業。

確かに、人類の認識を広げてきたのは天才かもしれない。けれどもその天才にしても、先人の仕事の一部である。ニュートンがいなくてもいずれ重力は見つかるし、アインシュタインがいなくても人類はいずれ相対性理論に行き着く。だから、自分以外のものをランク付けして下に見ているうちは、自分よりも大きいものを自覚しないうちは、仕事はできない。

その、仕事の認識は広がっている。

会社に来て、あるいはテレワークをして、公の人付き合いをするだけが仕事ではない。文化人類学は僕らの認識を広げてくれる。家のことや、親戚付き合いを公ととらえ、会社に行くことをプライベートと捉える民族の人もいるのだ。だから、祭の準備で忙しいのに、「会社に行って小遣い稼ぐなんて、プライベートが充実してて良いね」とかイヤミを言われる。公と私の領域は、明確ではない。

何が自分にとっての仕事なのか?

『ミステリと言う勿れ』は良い漫画だ。従来のミステリは、犯人を見つければ解決した。解決編は、まあ犯人が悪いわけだから、ちょろちょろっと説教して終わりだった。でも、その犯人が殺人を犯した動機が、勘違いや性癖や化け物みたいな自己都合だったらどうだろう?

現代は、「ここは禁煙ですよ」って人を注意したら、殴り殺されるかもしれない時代である。言葉や説得が通じない相手であふれている。いや、すまん。本題からそれた。つまりは、たとえば家族を犠牲にして成した仕事は、本当に仕事なのか?をこの漫画が問いかける事件があるのだ。これを言いたかった。それは、家族という大切な仕事をサボっているだけでは、うまくやれないことから目を逸らしているだけなんじゃないか?

俺は部品だ。
大きな営みの一部だ。

その部品が、何かを隠したり、独りで勝手に動いたりすると、だいたい失敗する。大きな営みを理解して動いていないからだ。敵方からすると、確固撃破が一番楽なのだ。

個人にはバラツキがある。「こんなもんか」と思う尺度は人によって違う。眠い時、腹が減っている時、さっさと仕事を終わらせたい時に、自分の中の「こんなもんか」が囁く。「こんなもんだろう、お疲れ」。そんな時は周りと、あと先人たちの遺したものを見てみると良い。みんな、その「こんなもんか」を超えてきている。そうしてただの部品は、大きな営みの部品になる。

俺は部品だ。

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