清水慎一自叙伝【1】〜菓子屋にはなりたくなかったんだけど〜
パティシエとして今年で23年目。
経営者として12年目になります。
別に今年は何の節目でもないけど、今一度ここで自分の軌跡を何回かに分けて記していこうと思います。
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も合わせて読んでもらえると嬉しいです。
「なんでパティシエになったんですか?」っていろんなところで聞かれます。簡単に答えてしまえば、それは「親が菓子屋だから、跡継ぎなんです…。」ってことなんですが。
でも、僕は菓子屋という仕事をやりたくなかったし、全く興味がなかった。そんな話からはじめたいと思います。
菓匠Shimizuは今の会社名であり店舗名なんですが、それは僕が経営者になってからこの名前表記に変えたもので、それまでにも店舗名は結構変わってきたようです。
遡ってみると、
菓匠Shimizu←菓匠しみず←御菓子司しみず←清水製菓←喜正堂 らしいです。
昭和22年戦後まもなく、祖父母が『喜正堂』という餅屋を開業したと聞いています。
家で朝食のご飯を炊く前のお釜で、餅米を蒸して餅をつき、それを近所へ売り歩いていたそうです。戦後ですから、砂糖はとても貴重な贅沢品だったそうで、なかなか使えなかったようです。でも、あんこを炊いて餅と一緒にだんごを作ったりあんころ餅にしたり、暗い世の中においてはきっと希望的な商売だったんじゃないかと想像しています。
僕の父が祖父母の働く姿を見て、大学進学をあきらめて製菓学校へ通い、都内の有名人気洋菓子店で修業をして家業を継いだそうです。
だから、父は僕が高校生になると、大学へ進学しろと強くすすめてくれました。それはきっと父自身が大学に行けなかったという想いを僕に託してくれたんだと思います。でも僕の大学時代は一番思い出が思い出せないくらいの4年間になるんですが…またこのことは後々書ければと思います。
なぜ僕は菓子屋になりたいと思ったことがなかったかというと、まず一つ目の理由が、そもそもお菓子がそれほど好きではないし、幼い頃から病的に不器用だし、自分には完全に向かない仕事だという認識もありました。
小学校のときに、僕の誕生日会をしたことがあり、クラスの友だちをたくさん呼びました。(昔はこういうことって結構あったと思うのですが、今の子どもたちはほとんどないですよね。まあ、別にそれはどっちでもいいんですが…)
その誕生日会に、友達みんなが当時流行っていた『ガンダム』のプラモデルとか、『ミニ四駆』とかをくれる訳です。友人たちは大はしゃぎです。自分がもらった訳でもないのに、みんな騒ぎながらそのプラモデルを見てました。でも、僕はちっともうれしくなかった。
なぜなら…僕はプラモデルが作れないんです!不器用で!何度も作ってみるのですが、一度として完成したことはありません。だから、プラモデルやミニ四駆を嬉しそうにプレゼントとして持ってくる友人たちに向かって、僕は…
『どうせプレゼントで持ってくるなら作って完成させてから持ってくれば?自分で作るならそんなのいらないよ!』
って、言って退けるんです。最低最悪な子どもです笑。でもそれぐらい不器用で細かい作業が嫌いでめんどくさかったんですね…。
少し話が逸れましたが、それが菓子屋になりたくなかった理由の一部ではあるんですが、違う理由があるんです。
その理由とは…
次回へ続く^ ^
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