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大学の首席卒業ってどうして分かるの? 何の価値があるの?

小池百合子都知事がカイロ大学を卒業しただのしてないだの、首席だの首席じゃないだので世間が騒いでいる。その真偽はさておき、以前から不思議に思っているのがこの「首席」というものだ。

首席であることがなぜ分かるのだろうか? また、首席で卒業することに何か価値があるのか? よく分からないのだ。

なぜ首席卒業と分かるのか?

小池百合子に限らず、ときどき「東京大学を首席で卒業し」のような経歴を見かけることがある。が、毎回不思議に思う。なぜ自分が首席だと分かるのだろうか?

私は同志社大学を2009年に卒業したが、だれが同学年の中で首席なのかは知らない。通知されたという話も聞かない。というか、「首席」というのが一学年全体の中での一番なのか、学部単位なのか、あるいは学科単位なのかも分からない。

そもそも首席というのは「成績が一番」のことを指すのだろうか。これすら怪しくなってきた。下手をすると、何か単一科目のみで一番だったとしても、首席だと強弁できてしまうのではないか。謎である。

首席卒業に価値はあるのか?

首席卒業というのが「総合成績が学年で一番」という意味だったとしよう。学部単位か学科単位か、いくつか問題はあるが、とりあえず細かいことはいいとして、そうだとしよう。

すると、また分からなくなる。

現在、大学の成績はGPAによって点数化されている。かつては優・良・可とかだったらしいが、とにかく点数化され、他人と比べるときは平均を取ることになる。

しかし、中学や高校と違い、大学は学生によって受講する授業が違う。その数も違うし、何より難易度が違う。

ある授業は非常に難しく、半分の受講生が落第し、A評価は5%の人しか取れない。一方、別の授業はいわゆる楽勝科目で、80%がA評価をもらえるとする。なのに、同じAとして評価されてしまうわけだ。

となると、高いGPAをゲットするためには単に頭がいいとかよく勉強をするという以前に、いかに効率よく楽な科目を見つけて登録するか、というゲームになってしまう。ここに注意を向けて点取り虫になった人の方が好成績を収めやすく、首席になりやすい。

ということは、大学の首席卒業というのは純粋に学力を反映したものではなく、授業の選び方の工夫を反映したもの、ということになる。こうして獲得した首席に価値があるのだろうか? いや、あんまりないだろう。

そもそも大学の成績というのは就職活動のときほとんど企業から評価されない。基本的に、日本人は大学の成績などどうでもいいと思っているのだ。にもかかわらず、首席卒業が何かすごいことのように思われているというのもおかしな話である。

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