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親の介護は突然やってくる(要介護4の父と要介護5の母)

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突然訪れた親の介護。いつか「やっと終わりました!」って投稿が出来るまで。
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#介護

墓に入ることと子世代の無宗教観

僕個人としては無宗教であるのだけれど、宗教を気嫌いしているわけではなくて仏像彫刻や人の心理的な影響としての存在は興味を持っている。美術的な視点や哲学的な観測みたいな学問的な難しいものではなく、もっとカジュアルな立ち位置。仏師知らないけどこの彫刻カッコいいな程度。 我が家は祖父母の代から檀家となってるお寺があり、なにかしら寺イベントがあれば祖母はお寺の厨房を仕切ったりしていた。これがまた大人数の食事を賄ったり、偉いお坊さんの食事や形式的なルールなんかも把握してお膳を用意したり

僕の日常に親がいなくなった話

父親の死後、淡々と業務的な手続きが進んでいく。急かされるままに葬儀や49日、年金の手続きやケータイの解約。さまざまに生きていた証みたいなものをひとつひとつ「死」というインクで塗りつぶしていく感覚。あまり心地よいものでもないけれど、特に忌み嫌う感じでもない。 自分の日常生活の中で「あ、父は死んだのだ」と思う瞬間は少なく、父を思い浮かべたとしても「死」が共存している感じもない。実家を離れて生活していく中で、いつのまにか父は「遠くに存在しているもの」として認識していて、それは亡く

49日を終えて、納骨

姉の家で過ごしていた父の遺骨も49日と共に納骨となり、ようやく納まるところに落ち着いたのかなと。僕らのドタバタも一息着く様な気がした。 父の位牌をどうするか問題がここで立ち上がる。位牌を預かることの重さを姉も僕も感じていて、出来るならばお世話になっていたお寺に納めたい。それが僕らの希望。 祖父母の位牌は叔父、叔母に確認することにする。実家は空き家状態になるので、手入れ出来ない仏壇に納めたままでは申し訳ない。ただ、自分の両親に関しては自分たちの家に納めるべきでは?とも思うけ

親が余命宣告されたらやっておくと良いと思ったこと

父親が入院したのは76歳の時。 僕はその時42歳になったところ。仕事はそこそこ忙しい。「その時」と書いたのは既に過去の出来事だから。既に父は他界しました。 働き盛りの人の親が入院するとどんな事が待っているのか。そして僕自身が後悔した事など、まとめておきたいと思ってコレを書いてます。 この時には父は定年退職し、時間は自由な生活を送っていました。 母は脳の病気が重なり、介護を受けながら身体のリハビリと治療を受けられる病院へ既に入院していました。ここへのお見舞いが父の日課。 そん

実家への通い道

金曜日、ETCカードを実家のクルマに挿しっぱなしの上、駐車場のビルの入り口の鍵も実家に置いてきてしまっていることに気づいて、ふらりと実家へ打ち合わせの後にクルマを走らせる。 なんとなく見慣れたというか、ほぼ通勤の様に頻繁に通る道も秋の空の様子に色々な思いが広がっていく。とはいえ、哀愁漂うとか思い出に浸るとかでなくて、疲れからの思考停止という感覚が近いかも。高速道路はこういう時にゆっくり走るのは快適なもの。 ICを降りて実家への道は父の入院していた病院の横を通る。ウインカー

人は死に方を選べない

色々と親の死に備えて、というよりも自分の中で未知なる不安が蓄積していく中で気晴らしに探索する中でそんな言葉を見つけた。「人は死に方を選べない」。 怪我でも病気でも日本では多くが病院での死を迎えるのではないだろうか。 治療が長引く中で施しようもなくなった患者さんが、家に帰りひっそりと死を迎える。そんなのは一部でしかない。と思う。 環境を整えること、付き添いする人を確保すること。それら家族の理解があってこそ。もちろん医者の承諾も必要になるから条件がとても多い。 とまぁ、自分

なにもできない。

今日は実家に帰らず仕事に集中する日と決めていたけれど、パソコンに向かっても何もできない。集中力がなさすぎて、気持ちがどこか遠いところにある感じ。 身体の疲労は強く、ストレスもある感じだけど、何をどうすればいいか解決策も無く。とはいえ父の様子にも変化はなく、特にしなければならないことも無い日なのだけど。仕事にならない。 気持ちが物凄く浮いちゃってる。ダメだな。 論理的に考えて動くことを意識しているけど、普段から仕事は感性のままに動いている。それで成り立ってる部分もあるんだ

考えること、備えること

両親の老後の計画は決して未熟なモノではなくて、標準的な生活水準を保てるモノだったと思う。 客観的に見ても、親から譲り受けた持ち家で夫婦二人が暮らす為に受ける年金は十分な金額であり、もしもに備える貯金に僅かながら回すことさえ出来ると思われる。 その環境を崩したのは二人同時の入院生活だった。日本の保険制度は高齢者に優しく、介護制度の整備も充実している。求める人に対しては十分なサービスが提供され医療費用も介護費用も1割負担。それでも予定外の出費は家計を削りとることになる。 もちろ

葬儀場の準備、相見積もりなど

父が元気な時に「ここで葬式するぞ」と言っていた葬儀社【A】と、祖父母の時にもお世話になってる【B】に姉と一緒に見積もりの相談に行ってきた。葬儀場の選定については下記より。 それで先に結論としては、父が「やるぞ」と言ってた【A】で会員となった上で葬儀を行うのが良いのではないか。という話に落ち着いた。 家族葬であることを考えると、それほどきらびやかな祭壇も式も必要ないだろうという点。もちろん父の蓄えが長期の入院治療費に消えたこともある上に、母の入院治療が続くことを考えると、出

葬儀場探しとパズル

父が元気な時に「ここで葬式やってもらうんだ」「あそこでやってくれ」と何度も指示した葬儀場があった。仮にそれを【A】とする。 そろそろ危ういということもあり、段取り確認も含めて【A】に連絡を取ると事前会員の確認をしてくれるというが、父の住所、電話番号(自宅・ケータイ)全てで情報が無いという。 その電話で色々話を伺うと、事前に契約または会員登録をした人には会報誌を年4回郵送配布しているという。その冊子に心当たりが無いから、やはり登録はしていないのだろう。 ではなぜ父は「【A】

お金の話

これとても大切。高齢となった両親の収入は年金のみ。出費は持ち家ということもあって、基本的な生活を送るなら光熱費と食費と税金くらい。ただ、今は両親共に入院生活ということで、ここに入院治療費と衣類などのレンタル費用が入ってくる。 実は母の入院費用で両親の年金がプラマイゼロ。母に特別な治療や手術などがあれば姉と僕とで援助していた状態。父が入院する前でも貯金を切り崩して生活している形だった。なので姉と僕とでちょこちょこと仕送りをしていた。そして父が入院することになる。 父の入院治

大切な家族の意味するものの移り変わり

「大切な家族」って言葉が指すもの。今の僕にとっては妻のこと。結婚するまでは親がその対象だったと思うけど、今の僕にとっての「家族」は妻だ。 一旦家を出てしまうと、血の繋がりはあれどどこか距離を感じてしまう。特に価値観の違いから「親であってもひとりの個人」として見ることがあり、自分との切り分けが強くある。 余命半年と言われた時は涙が出たけど、余命1カ月と言われた時は涙は出なかった。 父に「やり残したこと」があれば全力で叶えたいと思ったのと同じく「やりたくないこと」はさせたく

仕事が滞る

父の様子がいよいよという体制に入り、どうもこうにも生活が落ち着かない。仕事も集中力に欠けるし、何をすべきか全く思いつかない。ふと気づいて「親父の写真探しておいた方がいいよね」なんてLINEを姉に飛ばしたりしているうちに一日が終わる。 今抱えている仕事は大きく3件。それぞれの責任者や担当者へ今の状況を連絡した。幸いとても暖かい言葉と共に「家族との時間を大切にしてください」と不思議と同じ言葉が返ってきた。とてもありがたいと思う一方で、出来れば仕事を完了させたいとパソコンに向かう

父と過ごす時間

父の余命宣告を聞いた時は、駐車場の自分のクルマに戻って一人きりになった時に涙がこぼれた。去年の8月27日。でも父の記憶では「1年が経った。去年の6月だから」と。 それはただの記憶違いかもしれないけれど、本人の自覚症状だったり病院への診察だったりが、その頃だったのかもって思ったりもした。深くは問わなかった。 「何もすることがない」と父はベットで話した。 喉が乾いたからと、コーラとトマトジュースを買ってくる様に言われ、病院の中に入っているコンビニで購入する。父は僕が戻ると「飲