なぜVTuberに「中の人はいない」のか ~身体論から見るVTuber考察~
VTuber文化において、中の人の存在に触れるのはおおよそタブーとなっている。
もちろん、正式に公表しているケース(MonsterZ MATEの2人・ぱかチューブのゴールドシップなど)や実質的にバレバレなケース(ピーナッツくんと兄ぽこなど)もあるが、大っぴらに中の人や前世について話すのは推奨されていない場合がほとんどだろう。
しかし、「中の人の存在がタブー」という状況は、オタクカルチャーの中でもかなり稀である。ほとんどのアニメでは担当声優の名前が公開されているし、彼ら・彼女ら目当てでアニメを見たり、半ばタレント的に扱われることも多い。VTuberだけ中の人が誰か知ることができないというのは、なかなかに異質な状況だ。この理由は何なのだろうか。
すぐに思いつく理由としては、設定と現実世界との相違だ。人間と同程度の知能を持つ種族は今のところ発見されていないし、日本人なら地毛は黒か茶色がほとんどだ。設定と全く同じ人間、ないしそれに準ずる種族が現実世界にも存在する、と解釈するのは流石に無理があるだろう。
中の人について知ることで「演じている」という感覚が強くなり、配信を素直に楽しめなくなってしまう、というのは大きな理由の1つと思われる。
しかし、これだけでは仮説として不十分である。多くのVTuberの初期設定はほとんど忘れられているし、明らかに一般人がするような体験談について話しているところもしょっちゅう見受けられる。だが、多くの視聴者はそれを受け入れて配信を楽しんでいる。設定との相違はあまり重要視されていないのに、ただ「中の人がいる」という事実だけがタブー視されているのだ。
今回は「身体論」という分野の視点から、この不可解な謎を解き明かしていきたいと思う。まず始めに、議論を進めていく上で非常に重要な概念である「拡張された身体」について解説しよう。
身体は広がる
「身体とは何か」と聞かれて、あなたはどう答えるだろうか。大抵の人は、顔と手足が付いていて、人間なら誰しもが持っている"これ"(自分の身体を指さして)のように答えるだろう。
しかし、頭とくっついている部分だけが身体という訳ではない。身体論という分野の考え方では、本体と独立していても、随意に動かせるものなら身体と見なすことができる。これを「拡張された身体」と呼ぶ。
いくつか具体例を挙げてみよう。プロのスポーツ選手は、競技で使う道具を思い通りに、まるでそこに神経が通っているかのように動かすことができる。選手たちにとって、バットやラケットはもはや身体の一部になっているのだ。また、身体が不自由な人が使う車椅子や義手・義足なども「拡張された身体」の一種と言えるだろう。
身近なところでは着ている服もこれにあたる。服の袖に付いた汚れを見ようとする際に、わざわざ身体を動かしてそれによって服が動く、などと考えている人はほとんどいないだろう。文字通り、身体と服を一体化させて考えているはずだ。
このように、頭とくっついていなくても、脳からの信号でほぼ直接動かすことができるものなら擬似的に身体と呼べるのである。
逆に、頭にくっついていても思い通りに動かせない部分も多い。内蔵のほとんどは無意識的に制御されているし、「身体が思うように動かない」という言い回しがあることからも分かるだろう。
「拡張された身体」としてのアバター
これらの情報を表にまとめると以下のようになる。
上の行が狭義の身体であり、それに拡張された身体が加わって広義の身体を構成している。
これを見ると、Vtuberのアバター(いわゆる"ガワ")が「拡張された身体」に含まれることは明らかだろう。多少トラッキングが思い通りにいかないことはあるが、基本的には自分の思った通りに表情を反映させ、3Dなら全身を動かすことができる。
加えて、このアバターは拡張された身体に顕著な特徴である「交換可能性」を持っている。
人間の人格と狭義の身体は一体一対応であり、別の身体になることはできない。(フィクションならば『君の名は。』や『らんま1/2』のように、この部分を意図的に崩したものも多いが)
一方拡張された身体は、その本体と離れているという性質から、別のものと交換することができる。
そしてこの性質はVtuberのアバターにもある。一人の人間が別のアバターに移り変わることは可能であるし、互いに身体を交換することもできる。
↑アンジュ・カトリーナさんと竜胆尊さんの入れ替わり動画の例
しかし、VTuberのアバターは単なる外付けハードである、と言い切るのは早計だ。これにはまだ1つ重要な性質が残っている。それは「人間の(または人間的な)身体を再現したものであり、それと同一視される」という点である。
消失する中の人
最初の方で述べた「拡張された身体」の例は、全て本体に付け加える道具であり、当の身体自体はそのままであった。
だが、Vtuberのアバターは現実にいる人間の身体をバーチャル空間で再構成したようなものである。道具を付加したわけではない。「拡張」というよりは「投影」の方が正しいだろう。いわば、身体で身体を操っているという訳だ。
ここで重要なのが、アバターを操っている本体の存在を、アバターの姿を目にしている間に視聴者が認識することはない、ということだ。視聴者にとって中の人の身体は消失し、本人の人格がバーチャルな身体を直接動かしている、と認識される。
もちろん実際に尋ねれば、現実にいるのは髪の色が普通で、猫耳など生えていない普通の人間であるということは理解しているだろう。しかし、配信を見ている間このことは意識に上がらない。VTuberが現実世界で起きた出来事の話をしていても、中の人の身体は無意識のうちに無視され、バーチャルの姿で置き換えられて想像されるのだ。
では、なぜこのように「中の人がいなくなる」現象が起きるのだろうか。
これは「身体が何者かによって操作されている」という状況が、多くの人にとって非常に不気味に映るからだろう。
我々が現実世界で出会う人々は、もちろん人格と身体が一緒になっており、普段それに違和感を感じることはない。しかし、それまで人格そのものだと思っていた身体が何者かによって操作されていると気づくと、その身体はたちまち人格と切り離され、操り人形のように映る。
この「生き生きとした人間だと思っていたものが、実はただの抜け殻だった」という気づきは、かなり大きな恐怖を与える。これはロボット工学の分野でよく話題になる不気味の谷現象にも似ていると言えるだろう。これも、「普通の人間だと思っていたものが実はロボットだった」という気づきが不気味さの原因だ。
まとめ
以上のように、中の人の姿を想像することは視聴者に大きな違和感をもたらし、素直に配信を楽しむことを困難にしてしまう。そのため、余計な想像をかき立てないよう、中の人について大っぴらに話したり、中の人の存在を示唆するような発言をしたりすることはタブーとされているのである。
実際、どれだけ設定と異なる発言をしているVTuberでも、現実の身体とバーチャルの身体で見た目が違う、という話をすることは滅多にない。これは、設定との相違はそういうジョークとして認識してもらえるのに対し、見た目の違いは中の人の身体性をありありと想像させてしまうからだろう。
このような違和感が人間の本能的なところから来ている以上、中の人の存在がタブーとされる状況は今後も続いていくと思われる。皆が純粋な気持ちで配信を見られるよう適度に配慮して、楽しいVTuberライフを送っていきたい。
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