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締め切り #008 波に揉まれる / 池上幸恵

この「千の締め切り」は、いまのところ同人4人で順番に書いていて、じぶんの前の順番のひとが投稿してから7日以内に書いて投稿する、という締め切りになっている。前の順番のひと、檀上くんが投稿したのが3月5日だから、わたしの締め切りは3月12日というぐあい。
それでわたしは、書くことのだいたいの目星をつけていたのだけど、昨日から生理になってしまって、おもうところとか、自分の感情の位置みたいなものがグニャッと変化してしまったのでどうしようかしらと思っている。

生理によるところの変化というのは人それぞれだと思うけど、わたしは痛みとかはそんなにひどい方でもないので、自分のコントロール下に置くことのできない感情の変化とかを「ふむふむ・・」と思って観察するのを楽しんだりしているほうだとおもう。わたしは生理の2日前とか前日とかに、いつも以上にセンチメンタルなきもちになる傾向にあって、死んでしまったともだちのことを記憶から掘り出してみたり、実家が壊されてしまう想像をして更地の前に立つ自分を思い描いたりしたりする。

そこに立つじぶんは、もう無い家のことを思い出している。夕暮れに照らされた窓辺のネコ(チロ)の毛が光に透けてきれいなことだったり、その周辺にあった強そうなサボテンのことだったり、ビデオテープの「ツメ」を折ると上書き録画ができないと知ったときの驚きの感情だったり、脈絡のない実家の記憶が視覚的に通り過ぎるのを見ている。それで、そういう脈絡のない記憶の「よすが」である、物質的な家というものを失ってさびしい、という気持ちになって、たまに泣いたりする。それで(あれ・・?そろそろ生理かな?)と思ったりするということが毎月ある。何に対してセンチメンタルな気持ちになるのかというのは毎回ちがう。

今回のセンチメンタルは生理になる一日前に到来して、場所は住んでいる家の台所だった。篠原くんが昼ごはんに麻婆豆腐を作っていて、それはすごく辛いものだったので、わたしには麻婆豆腐ではなくチャーハンを作ってくれた。食べ終わると篠原くんは出かけて、わたしは家に残った。15時ころに台所に行くと、かたむきかけた陽の光が台所の窓から差して、わたしたちが麻婆豆腐とチャーハンを食べた揃いの白い皿ふたつと、水を飲んだ同じ形のグラスがふたつと、食後にむいてふたりで分けて食べたみかんの皮が台所にちらかっているのを照らしていた。コンロの上には中華鍋。おなじものがふたつ仲良く並んでいるのを見てさびしくなった。しあわせだったのかもしれない。しあわせがいままさに通り過ぎて行く感じがして悲しかったのかもしれない。冷静に見れば片付けていないだけの台所の様子で、具体的なことを言えば床とかコンロは油汚れでなかなかに汚かったりするのだけど、そこにある暮らしを全部知っている、という情みたいな気持ちが付着して台所がとてもきれいに思えたので写真に撮った。
台所に対してそんなふうに思うことはほとんどないので、その感傷的な自分のきもちに(あれ・・?そろそろ生理かな?)と思った。そう思って、生理がわたしの感情のハンドルを握っているとわかっていても、生理がわたしに台所の風景をそのように見させていると思っても、そう思うし見えているから、感情はぐらぐら揺れている。

という上記の文章を書いて5日が経って、そのあいだに生理が終わり、そして締め切りを1日過ぎた。ストレッチポールを買って、それをストーブの前に置いてしまって焦がし、部屋の片付けをした。感情の揺れはいつのまにか収まっていて、あのとき撮った台所の写真を見ても、あの感情を呼び起こすことができなくなってしまった。その写真に心揺らしていた過去の自分の気配を、この文章と写真に感じるだけで、なんとなく申し訳なさみたいなことを思う。

このようにして生理は、毎月波のようにあらわれてわたしを揉んで過ぎ去っていく。波に乗れたことは一度もない。嫌だと思ったことも一度もない。献血をするとすっきりする、という人がいるけど、わたしは貧血気味で献血をすることができない(できないとわかって、ちょっと泣くほど悲しかった。悲しがっていたら献血センターのお姉さんがジュースを買えるメダルを1枚くれた。)ので、生理で血が抜けていくのは、やぶさかでない気持ちなのかもしれない。

ここで一句。


また来月 波を待つ膝 砂浜に 三角にたたみ ひとりではない

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