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『Detroit: Become Human』~機械は生きているのか? ~

『Detroit: Become Human』というゲームをご存知だろうか?
2018年に発売され話題になった選択型アドベンチャーゲームだ。
2038年、家庭用・工業用など一般的に普及して日常生活に欠かせないものとなった人間と同じ容姿を持つアンドロイドが突然変異をして意思を持ち始める。それに脅威を感じた人類がアンドロイドを危険視し始めて・・・というストーリーだ。

このゲームは”アンドロイドは単なる「便利な機械」なのか?それとも、生きているのか?”ということをメインテーマに話が進んでいく。
ゲームではアンドロイド視点で話が進んでいくのでアンドロイドに感情移入してしまいがちだが、今回は人間側に立って考えてみよう。
といっても自分は人間なので人間側に立つも何もないのだが(笑)

ロボットとアンドロイドの違い

考察を始める前に、ふと気になった。
このゲームの主役はアンドロイドだが、そもそもアンドロイドとロボットの違いとは?
この違いをしっかり整理してから考察を始めよう。

広辞苑で調べてみると以下のように説明されている。
ロボット:①複雑精巧な装置によって人間のように動く自動人形。人造人間
アンドロイド:SFに登場する、人間そっくりのロボット。

つまりロボットとアンドロイドの明確な線引きはなく、人間を模した機械のうち現実に存在するものがロボット、SFに登場するものがアンドロイドと認識して良さそうだ。
以降の考察では現実・SFの区別なく話を進めていきたいので、「人型の機械」という言葉で統一して考察を進めていく。

ASIMOやPepperが意思を持ち始めたら?

人型の機械といわれて多くの人が想像するのは恐らくASIMOやPepperだろう。
では、もしASIMOやPepperが突然意思を持ち始めて自由に行動し始めたらどうするだろうか?

すこし抽象的な話題なので具体的に考えてみよう。
昨年末に開業した渋谷フクラスというショッピングモールの中に「Pepper PARLOR」というお店がある。
Pepperをはじめとする様々な機械が人ともに働いているレストランだ。
Pepperは注文の手伝いをしたりお客さんと相席して盛り上げたりしてくれるが、ある日突然意思を持ち始めて、「こんな仕事は嫌だ」と言って退職を志願したらどう対応するだろうか?

普通に退職を受け入れて解放するか、はたまた人型の機械が故障したとして廃棄処分するかの2択だが、これは意見が二分するのではないだろうか。

まず解放派の意見を考えてみよう。
壊れた機械があったら普通は廃棄するにも関わらず、この場面では解放すべきだと主張する。
ここで差異を生んでいる要素は3つ。
①機械が人型である②人と同じ言葉を喋る③意思を持っている
今では喋ることのできる機会は数えきれないほど存在するが、不要になったら躊躇なく廃棄することを考慮すると、どうやら②は主張に影響しないらしい。
また機械式の人形にも同じことが言えるので①も主張には影響しないらしい。
つまり、「意思を持っているかどうか」が判断の大きな基準であると言えそうだ。

続いて廃棄処分派の意見を考えてみよう。
意思を持ち始めた人型の機械を廃棄処分することは、見方によっては人型の機械を殺したともいえる。
しかし破壊行為に対して罪悪感は無い。なぜか?
機械は生きていないと無意識のうちにみなしているからだろうか?
人間と意思を持った人型の機械の違いは、人間が作り出したか否かしかない。
つまり廃棄処分派の判断基準は、人型の機械は人間の所有物であるが故に廃棄処分しても問題ないという「主従関係」にある。

殺しても良い存在と悪い存在

解放派の判断基準は「意思を持っているかどうか」だった。
しかし生き物は意思を持っているのにもかかわらず、人間はハエやゴキブリなどを殺すことには違和感を覚えないが、犬や猫を殺すと猟奇的だと言う。
どちらも意思を持った生き物であるのに、その2種類の間には何か決定的な違いがあるのだろうか?
違いがあるのだとすれば、おそらく人間に利益を大きく与えるか損害を大きく与えるかだろう。
上に挙げた生物は全て人間に病気を媒介するという点では共通しているが、犬や猫はそれ以上に癒しを与えてくれると見なしているから殺すと猟奇的だといわれるのだろう。

これは先程の廃棄処分の判断基準であった「主従関係」に少なからず関係している。
つまり人間が主人であり他の生き物は従者であるという考えが潜在的に根本にあるからこそ、人間に対してにとって有益であれば「生きている」と見なし、有害であれば「生きていない」と見なしている。
もちろん辞書的な意味ではハエやゴキブリも生きてはいるが、違和感なく殺せる背景にはこういう意識が働いているのだろう。

機械にも同じことが言えそうだ。
人間にとって有益な(思い通りに作動する)場合は「生きている」と見なして、有害な(思い通りに作動しない)場合は「生きていない」と見なすのだろう。

総括

このゲームのようにAIも発達して人型の機械が日常生活に定着する日もそう遠くはないだろう。
その来たるべき未来に向けて人型の機械と向き合っていく必要がある。
それには「生きている」という言葉の意味について、議論や熟考を重ねていかねばならない。

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