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ただそこに”ある”と信じる意志ある世界の話

小学校2年生の頃だった。

母が病気で入院をして、2か月ほど(実は正確な期間を覚えていない)離れ離れに暮らすことになった。

その間、父方の祖母が身の回りの世話をしてくれた。祖母は、僕が生まれた時から一緒に暮らしていたが、それまで家事はほとんどしない人で、自分の食事をたまに作ったり、自分の洗濯をやるくらいだった。

日頃、家事をしていない祖母が急に家の全ての家事をするのは想像以上に大変だったようだ。ピアノのレッスンは親の付き添いが必要で、それにも付き添ってくれていた。初めのうちこそいつもと変わらず振る舞っていた祖母だったが、次第に疲れが溜まってきたのか、洗濯物を畳んでいる時に、ひどく咳き込んだりして、家事をしながらも体力的に辛そうな場面を何度も見るようになっていった。

7歳だった僕も洗濯を畳んだり、手伝えることは手伝ったりしたが、咳き込む祖母の背中をさすってあげるくらいしかできなかった。この時、僕は、生きる拠り所が危うくなっていっているのをどこかで感じていたのだと思う。



手術は無事に成功し、母は退院して、家でしばらく静養することになった。うすうす気付いてはいたが、母は癌だった。大人になって初めて本人から知らされた。

母が家に戻ってきたその日。たった2か月ほど離れて暮らしていただけなのに、なぜか目の前にいるはずの母が妙に遠くにいるように感じた。それは物理的距離ではなく、心の距離が遠くなった感じとでもいえばいいのだろうか。

本当はすぐにでも甘えたい気持ちがあったけれど、もうそれは叶わないものだと勝手に思い込んでいた。その気持ちを抑え込むためだったのか、母が返ってきた日、僕はトイレにいって泣いていた。もう母の前では泣いてはいけない気がしたのだ。



母の退院からしばらくしたある日。
母はこんなことを聞いてきた。

「おばあちゃんとお母さんどっちが好き?」

正直、選べなかった。
どちらも好きだし、どちらも大切な人だった。

ただ、その時、僕は、少し間を置いてから「おばあちゃん」と答えた。

母は、その時、ひどく悲しい顔をした。
母は、「そう。」とだけ言葉を残して。
地球の裏側まで落ちていきそうな深いため息をついた。

僕は、間違った答えを返してしまったのだ。
母への答えは、「お母さん」が正解だった。
この時、僕は大きなミスを犯してしまった。

それ以来、僕は、人前で自分が感じていることを素直に伝えることを避けるようになっていった。



「おばあちゃん」という返答は、
僕の中では、その時の自分の中の真実だった。

母は、その真実を受け入れてはくれなかった。
それはその時の母のひどく悲しい顔に表れていた。

その時から、僕は、真実を語ると、そのあとにとても恐ろしい状況が訪れると思うようになってしまった。取り返しのつかない恐ろしい状況だ。

僕はそれ以来、自分の真実を伝えることを封印した。それは意識的にではなく、無意識にそうなってしまっていた。



もうあの時の親ほどの年令になっただろうか。

今だから言えることがある。

あの「おばあちゃん」という言葉は、
僕にとって、真実であり、そこに愛があったということを。

僕の「おばあちゃん」という返答の後に、
母には、「どうしてそう思うの?」と聞いて欲しかった。

僕の「おばあちゃん」という返答の後には、まだ続きがあって、それは、「おばあちゃんとお母さんどちらかを選ぶなんてできないよ」って言いたかったのだと思う。

「そして、お母さんがいない間、僕はとても寂しかったよ。
大切な支えをなくしてどうしていいか分からなくなったよ。
このままどうなるんだろうって不安で仕方なかったよ。」

「でもね、おばあちゃんは文句ひとつ言わずに、咳き込みながらも、必死で家事をしてくれていたよ。毎日毎日家事をしてくれたし、ピアノ教室にも付き添ってくれたし、身の回りのことをしてくれたよ。」

「だから、僕は学校にも行けたし、毎日ちゃんと生活ができたよ。
そして、お母さんの帰ってくるのをちゃんと待つことができたよ。
だから、おばあちゃんにも感謝しているんだよ。」

「本当はもっとお母さんに会いに行きたかったよ。
病気と闘っているお母さんを励ましに行きたかったよ。」


伝えたかったのは、ただそれだけ。

7歳の僕には、これを言葉で伝える術がまだなかった。勇気がなかった。

きっと母も一人息子と離れて、自分の命の行く末がどうなるかもわからなくて、ずっと孤独だったんだと思う。7年近くずっと僕の子育てをしてきたのに、どうして私じゃないの?たった2か月でなんで…って。

おそらくそんな気持ちだったのだと思う。



今からもう6年ほど経つだろうか。
母は、また別の癌になり、入院することになった。

入院の手続きなどをするために東京へ帰り、母と話す時間があった。
その時は、まだ7歳の自分が本当に伝えたかったことがはっきりとわかっていなかった。だから、母には、あの時は「ごめんね」と謝った。
母は、「あの時は、私もどうにかしてたわね…」と言った。

自分には、愛がないんだと勘違いしていた。
だから、「愛がなくてごめんね」という意味だった。

でも、最近気付いたのは、愛がないんじゃなくて、ちゃんとあったんだと。

あの「おばあちゃん」という返答には、
ちゃんと母への愛も、祖母への愛も、両方あったんだと。

だいぶ時間がかかってしまったけど
だいぶ遠回りしてしまったかもしれないけど
今ようやくここまでたどり着くことができた。

祖母はもうこの世にいない。
そして、母は元気で暮らしている。



してあげる、してくれる世界の”愛”からの卒業。

この先、僕が表現したいことは、
あなたの中にはこんな真実があるんだね。
わたしの中にはこんな真実があるんだよ。
それを一緒に感じようね。
そんな”愛”ある世界の創造。

それを屋久島の森に身を委ね、
その森をただ自分の五感で感じてみる。

自分自身の感覚を信じる、
ただその一点にのみ委ねてみる。

すると、その委ねた先には、”愛”ある世界がただある。目の前に広がっている。そんな世界が待っているのだと思う。

カラスバトの交尾の瞬間。屋久島の森で。

この写真は、2022年の縄文杉ガイドツアー中に撮影したもの。準絶滅危惧種に指定されているカラスバトという鳥のつがいが交尾をしている瞬間を撮影したものです。

ハトというと鳥の中でも人馴れしたイメージがありますが、このカラスバトは警戒心が強く、また緑豊かな常緑の森を棲家としているので、なかなかお目にかかることがありません。飛び立つ音や鳴き声はよく聞くのですが、屋久島でガイドをして11年。初めて見る光景でした。

そんなカラスバトがしかもつがいで、交尾をしている瞬間を目撃し、写真に収めてしまった。

屋久島の森の日常として、この光景はあるはずなんだけど、気付けていない、見えていない。

でも、間違いなくこの森に”ある”風景なんだと…この光景、このカラスバトたちを目撃して思うわけです。見えるものだけが真実ではなくて、この森を感じようとする中で立ち現れてくるものがある。

この日の旅人は、獣医さんをされている方で、きっとこの森に多種多様な生命(いのち)が"ある"ことを信じて疑わなかったのだと思う。

そんな姿勢でともに森に入れたからこそ、屋久島の森をともに感じれたのだと思う。

ただそこに”ある”と信じる意志ある世界にだけ、自分が本当に求めているものが"ある”という世界がきっとこの世の中にはあるのだと思います。

これから僕は、そういう世界を多くの人たちと分かち合っていきたいと思う。

屋久島の地で。


(表紙写真:まだありのままを表現していた頃の僕。)





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