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22年間のバレーボール競技生活を振り返ってみて(大分三好編)[後半]

 大分三好は、チャレンジリーグで優勝・準優勝を繰り返し、入れ替え戦の切符を手にするが、勝ち切ることが出来ずにいました。
 そんな中、僕は、セカンドキャリアの為に准看護学校に入学することを決めました。人と接する仕事であり、人の役に立つことが出来る看護師は、僕にとって理想的な職業でした😊
 准看護学校の入学試験は、筆記試験と小論文に、面接がありました。試験に含まれる教科の勉強や、小論文に関しては事前に内容を考えて臨みましたが、面接の練習は一切しなかったです😅
 面接の練習をしなかったのには僕なりの理由がありまして...それは何か?と言うと、「ありのままの自分を見て欲しい」という思いがあったからです💦
 看護師さんって、嘘をついたりしてはいけないというイメージが強くあったので、事前に学校の先生方の質問に対して答えを作って用意しておくのは偽りな気がして、そんな人が看護師になっていいのだろうか⁈と自問自答した結果が、答えを作らず、その時に思ったことを素直に言おうという考えに至りました🤣
 看護師としてプロの先生方が、自分が本当に看護師になるための資格があるかどうか見定めてくれるはず、だから、ありのままの自分でダメだったら、看護師には向いてなかったと思えばいい、そう思って面接に臨みました。
 その結果、無事に一次試験で合格💮
自信を持って准看護学校に入学することができました!一緒に試験を受けた石橋も合格し、2人の学生生活がスタートを切りました🧑🏻‍🎓

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            (准看護学校時代[親睦会]石橋・島﨑)

 A組・B組の2クラスあり、1クラス約50人の構成で、自分と石橋は同じA組になりました。小・中・高(学校)と大きく違ったのは、高校を卒業したばかりの子から、子育てをするお母さんたちまで、ともに学ぶ生徒の年齢が18〜50歳くらいと幅が広かったことです。僕の年齢が、だいたいクラスの平均年齢でしたね🤔
 一度社会経験をしてからの学校は新鮮で、義務教育時代は「勉強させられる」という感覚でしたが、今回は「勉強したい!」という気持ちでいました😤
 入学後、さっそくクラスの役員決めの時間がやってきました。案の定、学級委員長に立候補する人がおらず、進行が滞りました😓
 誰も手を挙げず、口を開かない沈黙の時間が流れていく、、、
 もちろん僕も手を挙げません!笑
                     何でかって⁉️
 だって人生で一度も手を挙げたことなんてなかったんですよ🤣
小・中・高・大の授業中に手を挙げたことなんてないくらい、恥ずかしがり屋だったんです💦
人前に立つなんて絶対無理‼️あり得ない😂
そう思ってた、そう思ってたはずなのに、、
                    「はい...✋」
                 えぇ➖➖➖➖Σ(゚д゚lll)
 いや、自分で自分に驚きましたね笑
頭の中で何が起きてたかというと、「僕は自ら学ぶためにここに来た、今までと同じではダメだ、変わらないと」そう思った途端、自然と手を挙げてしまっていたんです笑
 でも、その時思ったんです、僕がこうして手を挙げることが出来たのも、大分三好に入ってからイベントに参加したり、バレー教室で指導したり、テレビや雑誌の取材を受けたりと、様々な経験を得て来たからこそなんだと。いろんな経験が自分を成長させてくれている事に、改めて感謝することが出来ました😌

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             (准看護学校: 戴灯式の時の写真)

学生生活は、常に宿題に追われる毎日でした😵‍💫
准看護学校は2年間という短い時間の中で、新しい知識をたくさん詰め込まないといけないため、目まぐるしいスピードで過ぎて行きます💦
 週に3.4回の登校で、学校がある日は授業を終えてから、石橋と2人で体育館に行き練習する感じでした。しかし、実習が始まると記録に追われ、一睡もできない日もあったりと、練習することが難しい状況が続きました。そして、リーグ開幕も近づいて来て、僕は次第に全体練習から外れるようになりました。「学校の兼ね合いもあるし、試合に出ることは難しい、だったら一本でも多くみんながボールを触れるようにした方がいい」と思ったからです。けど、これは半分は本心で、半分は言い訳だったのかも知れません。ホントは、次第にバレーが下手になってきているのに気づいて、そんな姿を見られるのも、自分自身が認めてしまうのも怖かったんだと思います。
 そんなある日、同期の池田(りゅうちゃん)から言われたんです。「なんでせいちゃん入んないの?」と、僕は先程述べた理由をりゅうちゃんに話しました。でも、りゅうちゃんからは、「せいちゃんと一緒にコートに入ってプレーしたい」と言われました。僕が学校に通う前は、毎日練習前にりゅうちゃんとパスやボールゲームをするくらい仲良しで、バレーが大好きな2人だったから、その言葉は本当に嬉しかった。嬉しかったけど、その期待に応えることが出来ないことに胸が苦しくなりました。それからは、体育館に行く足取りも重く感じ、一生懸命にバレーをするみんなを見ながら、「みんなが真剣に取り組んでるのに、自分は中途半端やん、ここに居ていいんやろうか、、」そう思っていました。
 だけど、そんな僕を救ってくれた人がいました。その人は、当時の監督であった小川さんです!
小川さんは、僕にこう言ってくれたんです。「学校が大変なのはわかる。今は、プレーでチームに貢献するのは難しいかもしれん、でも、チームにとって島が出来ることをやってくれ」と、この言葉をかけてもらった時に、悩んでいたことがスッと消えていく感覚でした。プレーすることだけがチームの助けになる、そう思っていたけど、自分に出来る事を探してやればいいんだ!と思えるようになりました。
今の自分に出来ることを全力でする
これまでずっとそうやってきたつもりだったのに、いつの間にか、こんな大切なことを忘れかけていたんだと気付くことが出来ました。それからは、ボール拾いやワイピングに掃除など、チームの為に出来る事を探して取り組むようになりました。そして、今の自分が最も成すべき事は、勉強をしっかりして、必ず准看護師の資格を取得することだと思いました。でも、学業を優先させてもらうのに、ただ資格を取ったというだけでは、みんなに胸を張って帰って来ることはできない。だから、学校で1番になって卒業すると決意しました😤
 やると決めた以上は必ず達成してやる!
その意気込みで勉強にも熱が入りました🔥
少しでも時間があれば勉強する習慣をつくり、読むだけじゃなく、見る・聞くといったいろんな感覚を駆使して学ぶように工夫しました。リーグに帯同して応援をしていた時も、合間に教科書を読んだりしていました。
 たくさん勉強することで、理解できることが増えてきて、それが楽しくて、もっと知りたいと思うようになるから、不思議なことに勉強が苦痛だとは感じなかったんです😳
 そして、月日は流れていよいよ准看護師試験の当日に📝
周りは不安を抱えながら試験に臨む中、僕は今までやってきたことに自信があったため、試験に合格するというより、満点を取りに行くぞ!という気持ちで挑みました✊
 その後、無事に試験を合格し💮准看護師になる事が出来ました。そして、待ちに待った学校の卒業式🏫
学校で1番になって卒業すると決めていた目標を達成することができ、大分県知事賞という賞状を受け取りました🏆
 また、僕は学生代表として答辞を述べるという名誉もいただきました。堂々と胸を張って、この2年間の思いを読み上げました。
 バレーとは遠ざかってしまったけれど、結果を出すと覚悟を決めて取り組んだ学生生活、「やると決めたらやる」その思いがあったからこそ、首席で卒業という目標達成を可能にしたのだと思います。この経験が、やればできるという自信に繋がり、さらに僕を大きく成長させてくれたと思っています。

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                     (准看護学校:卒業式)

学業とバレーの両立、そんな容易い事ではなかった。どちらにも100%で取り組める力が僕にはなく、だからといって、折り合いをつけてどちらも中途半端になるのも嫌だった。自分が今すべきことを考えた結果が、学業を選ぶという答えになりました。ファンの方から両立出来て「すごいです」と声をかけてもらうことが多かったですが、それこそ嘘をついているみたいで申し訳なかったです。大切な人達をガッカリさせたくなくて、本当の事が言えず、すいませんでした。
 僕らは病院で働きながらも、競技者として、バレーボールで活躍することが求められている中、学業に専念させていただくことを理解して、応援してくれたスタッフや仲間、温かく支えてくださった職場の方々、そして、資格を取得するための環境を与えてくださった院長先生に感謝の気持ちでいっぱいです。

 ここでもう一つお話したいエピソードがありますので、読んでいただけると幸いです。

 僕と同じクラスにAさんという女の子がいました。入学式にAさんは出席しておらず、学校が始まってからも欠席が続いていました。担任の先生が言うには、入院をしているらしく、時間がかかるそうでした。僕が学級委員長になった後、なかなか学校に来ないAさんが気になり、先生に相談をしにいきました。「Aさんのことなんですけど、いきなり学校に来ても知らない人ばかりで戸惑うのではないかと、だからお見舞いに行ってお話ししたりすれば、僕だけでも顔見知りになるから、退院した後も学校に来やすいと思うんです。」と話しました。先生は、「ありがとう、実はAさんは入院が長引きそうで、来年の学年に移ることになったの、でも、島﨑くんの気持ちはAさんに伝えておくね。」と言われました。なんだか寂しい気持ちと、でも来年入学できるなら良かったと安心もしました。
 少し時間が経って、先生から呼ばれていくと、「この前話したAさんのことなんだけど、実は島﨑くんのファンだったみたいなの!バレーする姿を試合で観たことがあったみたいで、だから、一緒のクラスになれてすごく喜んでたみたい!一つ下の学年になっちゃうけど、島﨑くんの気持ちがすごく嬉しかったって。来年入学したらお話ししてあげてね!」と言われました。そうだったんだ💦と僕も嬉しい気持ちになりながら、僕らはやっぱり人に観られる立場にあり、バレーをすることで誰かの力になれているのかも知れない、そう実感しました😌
 それから一年が経ち、Aさんが無事に入学したことを聞きました。学年が違うと登校日がずれるため、ずっと会うことが出来ずにいました。そして、一年に一回ある、1.2年生の交流会の日が近づいて来ました!交流会では毎年バレーボール🏐をやっているそうで、今年もバレーをすることに。先生から、「Aさんが頑張って島﨑くんに話しかけに行くって言ってたから、お話ししてあげてね!」と言われ、「もちろんです👍」と、僕も少しワクワクしながら当日を迎えました。しかし、交流会当日にAさんから話しかけられる事がなく終わってしまいました。後日先生に確認しに行くと、「それがね、、Aさんまた入院してしまったの、あんなに楽しみにしてたのに」と、「そうだったんですね、、」と答えながら、この時には少し勉強も進んでいたりしたので、もしかして...という考えが頭をよぎりました。それ以来Aさんの話しはなく、自分も勉強や実習で頭がいっぱいでAさんのことをすっかり忘れていました。
 いよいよ准看護試験が間近に迫って来た時のこと、家に帰ると父からいきなりこんな話しが、「俺の職場の人がな、娘と征士郎が学校で同じクラス⁈やったみたいで、〇〇さんって言うんやけど、わかるか?」僕は、すっかり忘れてしまっていたため、えっ⁈誰だろうと考えていました。すると父はこう続けました、「なんか入学しようとしとったけど、入院しとったみたいで、学校に行けんかったみたいやけど」と、そう言われた時に、「あっ、Aさんやな!」と思い出したのです。父は、「実はな、その親父さんから頼まれてな、娘が今度大きな手術が決まっちょって、不安になっちょん、親としては勇気づけてあげたいと、大好きな島﨑くんのメッセージとかサインをもらえたら、本人も頑張れると思うんですっち言われたんや、ちょっと書いちゃっちくれんか?」と言われ、僕は「わかった」と答えました。しかし、自分も試験を1週間後に控えていたため、勉強に集中しており、手紙を書いたのが試験を終わってからになってしまいました💦
 それから何日か経って、父にどうだったか尋ねると、「手術はもう終わっとったらしい、でも、その手紙を見て喜んどったそうや、ありがとうございましたっち」、手術前に届けることが出来ずに申し訳なかったと言う気持ちと、無事に手術を終えることが出来て良かった😭という気持ちでした。
 それからしばらく時間が経ち、准看護学校で良い成績を収めることが出来た僕は、高看(正看護師)の学校に進学することを決めていました。そんな矢先、友達から突然「1年の時入学する予定やったAさんって覚えてる?実は亡くなったらしいんですよ」と言われたんです。僕は一瞬思考が停止して、頭の整理がつかない状況でした。嘘だ、嘘だ!そう思いながらも、悲しい現実を受け入れました。その日の夜、家に帰ると父から同じ話しを聞きました。職場のAさんのお父さんからは、最後に島﨑くんの手紙を貰えて良かったと言われたそうです。僕は、両親には見られないところで静かに泣きました。どうしてもっと早く手紙を書いてあげられなかったんだろう、どうして会いに行ってあげられなかったんだろうと悔やみました。そして、こう思ったんです。Aさんは看護師としての僕ではなく、バレー選手としての僕を観たかったはずだと...
 高看に行くため、学業は続くけれど、もう一度プレーする姿をAさんとご両親に観せたい!ホームゲームで3人を招待して、僕がもう一度プレーする姿を観てもらうんだという決意をしました!
 それからは勉強をしながら、試合に出るための準備を始めました。准看の時には成しえなかった両立、でも、今回はAさんのために必ず達成してみせる!その思いで鈍った身体を鍛えていきました。当初、オーバーパスも出来なくなっているような状態の僕が、試合に出るなんて言ったら、笑われるかもしれないと思い、周りにはダイエットしてる(笑)とはぐらかしていました。しかし、心の中では燃えたぎるような意志を抱えていましたが、、
 まずは体重を落とすべきと考え、ランニングから徐々に始め、食事にも気を遣い、2ヶ月で10kgの減量に成功し、オーバーパスの感覚を戻すために1日1000本壁パスを続けていました。学校終わりに体育館行にくと、みんなは練習終えており、パス相手がいない時は、1人で出来ることを探しました。1年以上のブランクがあったため、取り戻すにはみんなよりも時間をかけないと間に合わないと思い、日曜日も体育館に行き練習をし、学校の行事で旅行に行ったときも、旅館で筋トレをして、1日足りとも無駄にはしなかった。全てはもう一度試合に出るためだった。そんな日々が続き、身体は徐々に最高潮の状態に戻っていきました。

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 (学校に通う前のような身体に仕上がってきた📸)

リーグも開幕し、試合が進む中、ホームゲームも近づいて来ました。もしかしたら試合に出れるかもしれない、そう思い、父に、Aさんのお父さんの連絡先を聞いて連絡してみましたが、連絡が繋がらず、ホームゲームに招待することは叶いませんでした...
 そして、いよいよホームゲームの日を迎えた。土・日と試合が行われるなか、土曜日は救護の関係で僕は白衣を着て救護席に座って仲間の試合を応援していました。

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    (救護席にて観戦:大学の後輩と話している様子)

土曜日の試合が終わり、みんなは明日の試合に備えて家に戻っていくなか、僕は1人体育館に向かいました。もしかしたら明日試合に出られるかもしれない、身体を動かして準備しておかないと。心も身体も準備は出来ていました。その後、監督から電話があり、「島、明日いくぞ!」と言われ、僕は「わかりました!」と答えながら、久しぶりの試合にワクワクして眠りました。
 試合が始まり、スコアはどんどん進んでいきました。そして、遂に僕の出番がやって来ました。仲間や、ファンの皆さん、職場の方々など多くの方が待ち望んでくれていたと思います。みんなの期待を一身に背負う中、もう一度Aさんに観せることができるプレー姿、ピンチサーバーとして、全身全霊を込めてサーブを打った。「 オラァ!!」と叫んで放ったボールは決して強くはなかった、だけど、その一球に込められた思いの強さが相手を崩し、サービスエースとなった!決まった瞬間に雄叫びをあげながら、涙が滲みそうになりました、、

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           (サービスエース後:仲間と喜ぶ姿)
 やったよ、Aさん観てくれているかなぁ、Aさんに届いたかなぁ、きっと喜んでくれているはずだ!と思いました。そのゲームに勝ち、引退試合だった先輩にもいい形で終わらせてあげることが出来て本当に良かった。「やっぱり、バレーって最高だ!」と思いました。
 不可能だと思っていたことも、誰かの為になら成し遂げる事ができるのかもしれない、もしくは、強い意志があればできるのかもしれない、僕はAさんにもう一度プレーする姿を見せたいという思いが、心を身体を動かしてくれたけど、毎日バレーをする中で、やっぱりバレーが好きなんだということにも気付かされました。Aさんとの出会いから、僕らはバレーボールを通じて人に夢や希望や、勇気を与えることが出来る存在なんだと改めて実感しました。これから三好を引っ張っていく選手達には、試合を観てくれる人達にそういったものを与えられるプレーヤーであって欲しいなぁと思っています😌

   (Aさんのご冥福をこころよりお祈り致します。)

 最後までお読みくださりありがとうございました‼︎看護学校での経験や学びが、さらに自分を成長させてくれました☺️
 そして、次作の記事が振り返りの完結編となります🥲
よければまた見に来てください✨

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