「特急」
大阪での用事を終え、ボクは京橋から出町柳行きの特急に乗った。ボクの家は終点の出町柳のすぐそばなので、あとはこのまま乗っていればいい。
思わぬ理由で予定が長引いてしまい、もう7時を過ぎている。丁度帰宅ラッシュにぶつかるので、もう座れないだろうとあきらめていたのだが、車内は思ったよりすいており、偶然、目の前の席が空いていた。僕は窓側に座り、カバンから読みかけの小説を取り出し、ページを繰り出した。
どのくらい経ったのだろうか。小説を読みながら、知らないうちに眠っていたらしい。視界が真っ暗なのにハッと気付き、自分が眠っていたことが分かったのだが、目を覚ましたのは、どうやら遠くでしている、間断のある何かの音のせいであるらしい。
ボクは目を開けて、軽く伸びをし、足下に落としていた小説を取り上げた。それから周りを見回し、僕が起こされた原因が、どうやらどこかのおっさんの咳である事が分かった。
おっさんは、本当にタチが悪い。所構わず痰がらみの咳をするし、この前も今日と同じくこの特急に乗った際、隣に座ったおっさんが京橋から出町までずーっといびきをかいており、ほとほとうんざりさせられた。今日も快適な睡眠を遮られ、ボクは明らかにいらだっていた。
そんなにむせるような咳でもなかったので、実際にはたいしてうるさくもなかったのだが、しかし、そういった音は、たとえ音量は小さくても、一度気になってしまうと、もう、集中して本を読むことなどできなくなってしまう。ボクはあきらめて小説をカバンにしまい、暗くて何も見えない窓の外を見るともなしに眺めていた。
しかし、おっさんの咳は一向に止む気配がない。しかも、初めの頃に比べ、明らかにその間隔が縮まってきている。最初はただ、やかましいと思っていただけだが、これだけ長く続くと、さすがに心配になってくる。
ボクはしばらく迷っていたが、立ち上がって様子を見にいこうとしたその矢先、今度は僕の後ろの方で、おそらく女性と思われる咳が聞こえてきた。
「もらい欠伸」というのは聴いたことはあるが、咳に関してそんな話は聴いたことがない。しかし、後ろの女性が咳をし始めると、それがまるで何かの合図でもあったかのように、ボクの前でも後ろでも、咳をする人がどんどん増えていった。
ボクは気味が悪くなり、気にしないように窓の外を見ていた。しかし、ついに通路を挟んでボクの反対側に座っていたサラリーマン風の人までが、いきなり咳をし始めた。それも、かなり苦しそうである。
ふと気が付いてみると、この車両で咳をしていないのは、どうやらボクだけのようである。
ボクは「すわ、毒ガスか」と一瞬ドキッとしたが、まずそんなはずはない。なぜなら、ボク自身は、全く喉の痛みもないし、目眩もしないからである。もし、それほど有毒でなかったとしても、何らかのガスが撒かれれば、これだけ狭い空間である、ボクだけが無事という事はありえない。
それでは単なる偶然だろうか。しかし、それにしてはこの状況は明らかに異常である。何らかの原因があって、みんなが同じ症状になっているとしか思えない。しかし、何度確認してみても、ボクの体は一向に正常なのである。
しばらく様子を見ていたが、車内の咳はいつまで経っても止みそうにない。それどころか、むしろどんどんひどくなっている。しかし、ボクにはどうすることもできない。どうしてこうなったか、全く分からないのである。
電車はもうしばらくで出町柳に到着する。車内の咳は依然続いている。
そしてボクは、相変わらず喉に痛みもなく、何かがつかえてる感覚もなかったが、周りを一回り見回してからひとつ、
「ごほん」
と、軽い咳をしてみた。
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