「無名人インタビュー」を終えて

2週間ほど前でしょうか、僕の親戚は食堂を経営しているのですが、どうやら人手が足りないようで、僕は手伝いに来てほしいと頼まれました。加えて、卒論の準備もあるので多忙となってしまい、noteの記事のほうが更新できず申し訳ない限りです。

さて、昨日、僕が先日受けた「無名人インタビュー」の記事がnote上で公開されました。

最初は、「無名人インタビュー」という企画をたまたま見つけ、「面白そう
だな」と興味を持つことから始まりました。
そして、自分が普段考えていることを言葉にして、さらにそれを不特定多数の人向けに話す機会はめったにないので、やってみようかと軽い気持ちで応募しました。
さて、インタビュー記事の最初のほうの内容にも関係しますが、僕の頭を悩ませてきた問題が、「なぜ自分は歴史に興味をもち、そして勉強を続けるのか」というものです。自分一人でいるときはこういうことを考えませんが、人から聞かれるとふと立ち止まります。今回のインタビューに限らずとも、友人や親戚に聞かれたときもいつも答えに窮してきました。
思えば、僕も最初は記事にもあるように、漫画やドラマを見ておもしろいと思って興味を持ったのだと思います。
しかし、今の時代「面白い」「楽しい」という思いをしたいだけなら、様々な娯楽があります。別に歴史を勉強しなくても、楽しい思いはできるはずです。
けれど、僕の中では、歴史や古典(僕の場合は特に儒学や仏教)の学びを、どうしても「娯楽のなかの一つ」とは思えないのです。
というのも、僕はもともと「娯楽」にはあまり熱中できないのです。ゲームも、小学生のころはよくしていましたが、一回クリアすると飽きてしまいます。それに、非現実の世界にもあまり熱中できないのです(その理由はわかりませんが)。
もちろん歴史も、フィクションの話が出てきたりはしますが、実際にこの世に生きていた人々が織りなしてきたものです。だからこそ、先人たちの言葉、生き様が落ち込んでいるときの僕を励ましてくれます。

そしてもう一つ忘れてはいけないのは、「亡くなった人々の命をしっかりと受け継いでいく」という側面です。インタビューでも話したように戦争の記憶・戦争で亡くなった人の想いをしっかり伝えていくことが代表例ですが、戦争に限らず、人を「死んでおしまい」にしないことがすごく大切だと思います。それは、「歴史上に名を残せ」と言うのではありません。名前が残らなくても、その人が生前大事にしていたことを伝えていくことが大事だと思っています。
例えば、僕が普段お世話になっているお寺は浄土真宗ですが、これも、鎌倉時代以来、歴史上には名前が残らなかった数多くの民衆たちの信仰があったからこそ今にまで教えが伝わったといえます。さらに浄土教自体のルーツをたどれば、2000年ほど前のガンダーラ地方にはすでに阿弥陀仏の信仰があったようです。そうなると、僕の想像をはるかに超える人々の思いが、今にまでつながっていることになります。それは、ほかの宗教でも同じことです。それを思うと、そうした、数えきれないほどの民衆たちの想い、そして命を無駄にしてはならないという気になってきますし、そのためにも教えを未来に伝えていきたいという気持ちに自然となってきます。

歴史を題材としたドラマ・漫画のような、娯楽としての側面もあってよいでですし、そこから歴史に興味を持ってくれる人も多いでしょう。ただ、歴史における、この「亡くなった人の想いを受け継いでいく」という点は強調しておきたい、と今回のインタビューを経て改めて感じました。


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